教会は「旅する神の民」

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教会は「旅する神の民」

カテゴリー 折々の想い 公開 [2012/04/17/ 00:00]

ミサに集まった神の民

ミサに集まった神の民

教会は「神の民」であり、しかも「地上を旅する」神の民であるという、第2バチカン公会議(1962-65)の教えを聞いた時、多くの人が新鮮な驚きを覚えた。長い間忘れていた教会のイメージがそこにあったからである。

20世紀になって、見える制度としての教会の認識から、見えない秘義としての教会への関心が高まる。初めに出てきたのが聖パウロの書簡から「キリストの神秘体である教会」という教えで、ピオ12世の回勅『Mystici Corporis』(1943)で普及した。そして第2バチカン公会議は、教会の本性を現す最も適切であるとの判断から、「神の民」という表現をもって教会を定義したのである。

公会議は「神の民」の起源について述べる。「いかなる時代にも、いかなる民族においても、神をおそれ正義を行う人はすべて神によみされている(使徒行録10,35参照)。しかし神は人々を個別的に、全く相互の連絡なしに聖とされ救われることではなく、かれらを、真理に 基づいて神を認め忠実に神に仕える一つの民として確立することをよしとされた」(教会憲章9)。そこで神は、旧約における神の民を通して準備したのち、キ リストの血による新しい契約に基づいて、「肉に従ってではなく霊において一つに結ばれた民、神の新しい民となるように、ユダヤ人と異邦人のうちから一つの 民を召集した」(同上)。

公会議は続いて言う。この新しい神の民の「頭」は「キリスト」である。この民は、聖霊に生かされて「神の子らの品 位と自由」を共有している。そして、この民の「おきて」は「キリストの愛」である。さらに、この民の「目的」は「神の国」であり、この神の国は、「神自身によって地上に始められたが」、「世の終わりに」「神によって完成される」(同上)。

この神の民はまた、「現実にはすべての人を含まず、またしばしば小さな群れのように見えるが、それは全人類にとって、一致と希望と救いの堅実な芽生えである」(同上)。つまり、神の民はすべての民族や国家や文化を超える普遍的な存在であり、したがってすべて地上の国民や民族、そして文化を包含して「多様性の中に一致」を実現するのである。人々が切に願う世界 の一致と平和は最終的には神の民の中に実現する。したがって、この民は「すべての人のあがないの道具(秘跡)として、全世界に派遣されている」(同上)の である。

このような神の民が、すなわち教会である。もともと旧約聖書がギリシャ語に翻訳されたとき(70人訳)、ユダヤ人のqehalを ecclesiaと訳したが、日本語で「教会」と訳されているecclesiaという語は、「神に従い、神との契約を更新し、神の望みを行うために神に よって呼び集められた神の民」という意味であったという。そこで公会議は言う。「神は、救いの作者であり、一致と平和の源であるイエズスを信じ仰ぐ人々を 一つの集団に集めて、教会を設立した。それは、教会が、すべての人と個々の人にとって、救いをもたらす一致の見える秘跡となるためである」(同上)。

さらにもう一つ、主キリストのもとに呼び集められた神の民は、「誘惑と試練」(教会憲章9)の中で、主が来られるまで地上を旅している、という公会議の指摘 は新鮮であった。教会は地上の国に属せず、天上の国に属している。地上における神の民はいわば他国人(パロイコス)」であり、巡礼の旅路にある。公会議以 前には、地上の教会は「戦う教会」(Ecclesia militans)であると教えられていたが、公会議においてこの表現は消え、代わりに「旅する教会」という表現が現れたのである。しかし、だからと言って地上の教会から「戦い」が無くなったわけではない。

人間を神から引き離して自らの権力下に引き込もうとする悪魔とその勢力は依然として活発である。今や強欲資本主義とも呼ばれる拝金主義や、神のいない虚しい「霊性」(Spirituality)の中に安らぎを求めるニューエイジや類似の運動は盛んである。人間をして「神も仏もない」と言わしめるような天災や人災も絶えることがない。だから教会の霊的な戦いは最後の日まで終わることがない。

一 方、公会議は、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5,44)と命じたキリストに従い、人間との一切の戦いをあらためて放棄し、対話路線へと転 換した。多くの厳しい試練や誘惑の中で、神の民はすべての人間を呼び集えながら神の国の建設に励み、終末におけるその完成を待望して旅を続ける。すべての国民と民族が、そしてキリストへの信仰に至っていない諸宗教を信じる人々や無神論の人々がすべて神の国に招かれており、すべてがキリストへ秩序付けられて いることを教会は確信しているからである。同時に、頭であるキリストとその霊が教会に留まり、「肉の弱さの中にある」(教会憲章9)教会を強め、導いて下さることを教会は確信している。主は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28,20)と約束したからである。