幼児洗礼の重要性とそのあり方
カテゴリー 折々の想い 公開 [2012/06/01/ 00:00]
教会の刷新と現代化を目指した第2バチカン公会議が、典礼刷新の中で幼児洗礼式の改訂を行ったことは重要な出来事であったと云わなければならない。現代の物質文明の中で進行する世俗主義を考えれば、幼児洗礼の形骸化は看過できない問題だからである。
結婚の秘跡によって結ばれたキリスト者の夫婦は、新しい生命の誕生において神の協力者である。それは、人の子の生みの親になるだけではなく、神の子(養子)の生みの親になることでもある。しかし、そのための幼児洗礼の儀式は従来、成人の洗礼式を短くしただけであり、幼児洗礼が必要とする信仰教育から切り離されて形骸化する恐れがなかったとはいえない。
そこで第2バチカン公会議は幼児洗礼の重要性と同時に、洗礼を受けた子どもの信仰教育に関する両親および教会共同体の責任を鮮明にするための幼児洗礼式の改訂を指示した。公会議は言う。「幼児のための洗礼の儀式を改訂し、幼児の実状に順応させなければならない。両親および代父母に属する部分と、かれらの義務が、儀式そのものの中で、より明らかにされなければならない」(典礼憲章67)。
公会議の指示に従って公会議後に改訂された幼児洗礼の儀式書の日本語訳と日本の教会への適応は、1974年5月、日本司教協議会総会において認可された。それによれば、「幼児洗礼の緒言」の冒頭に「幼児洗礼の重要性」が次の三点に示されている。
(幼児)
1-ここで言う幼児とは、まだ分別がつかず、信仰を自分のものとして表明することのできない者を指す。
(幼児洗礼の習慣)
2-福音を宣教し、洗礼を授ける使命を与えられた教会は、最初の時代から成人ばかりでなく幼児にも洗礼を授けてきた。それは、「人は水と霊によって生まれなければ神の国にはいることはできない」(ヨハネ3,5)という主のことばの中に、幼児にも洗礼を拒んではならないことを教会が常に理解してきたからである。
幼児は、両親、代父母、参加者一同が宣言する教会の信仰の中で洗礼を受ける。この人々は地域教会を代表するとともに、母なる教会全体を代表しているのである。
(信仰における幼児の成長)
3-幼児は教会の信仰の中で受洗したのであるから、秘跡の意味が実現するために、その信仰の中で育てられなければならない。幼児の受けた秘跡そのものがキリスト教教育の基礎なのである。キリスト教教育は、キリストのうちに示された神の計画を徐々に教え、ついに本人自身が信仰を承認できるように導くことを目標としている。(以上緒言から)
こうして改訂された幼児洗礼の儀式においては、以上の趣旨を表現するために、生みの親の役割と決意、教会共同体の責任が強調されていることは言うまでもない。ここでは、洗礼の秘跡によって始まる幼児のキリスト教教育の実際について言及しておきたい。このキリスト教的信仰教育は、特に両親による家庭の信仰教育と、地域教会(特に小教区)における子供のカテケージス(要理教育)によって行われる。
まず両親は、祈りのあるキリスト教的家庭を築くように努め、日々の家庭生活と折々の教えによって子供の信仰を育成し、合わせて子供を教会共同体に導入する責任がある。一方、小教区共同体は、主任司祭の指導のもと、典礼を中心とする教会共同体の模範の中で、おもに要理クラスにおけるカテケージス(要理教育)を通して、子供たちの信仰の知識と理解を深めて信仰を自分のものとし、その信仰を、ミサを中心とする典礼生活と、自己とこの世の聖化を目指す使徒的生活の中に生かすことができるよう導かれる。なお、将来、結婚と家庭への道をとるか、司祭や修道者の特別の召命の道を選ぶか、人生の選択についての指導は大切とされる。
最後に、幼児洗礼にかかわる生みの親の責任についての新教会法典の指針を、以下に紹介しよう。
第867条 (1) 両親は、幼児が誕生後数週間以内に洗礼を授けられるよう配慮する義務を有する。両親は幼児の誕生後、可及的速やかに、又は誕生以前にも、子女のために秘跡を願い、そのふさわしい準備をするために主任司祭のもとに赴かなければならない。
(2) 幼児が死の危険にある場合、直ちに洗礼を授けなければならない。