信徒固有の使命とは何か

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信徒固有の使命とは何か

カテゴリー 折々の想い 公開 [2012/06/15/ 00:00]

高山右近像

高山右近像

「聖職者中心の教会理解は、信徒中心へとその重心を移した」と岩島忠彦神父は『第2バチカン公会議の過去と現在』と題する記事の中で書いた(カトリック新聞4145号)。教会内の人口比率を見ても、聖職者と修道者の0,1パーセントに対して、信徒が99,9パーセントを占めているから、その重要性は計り知れよう。

公会議は、信徒固有の召命について次のように述べる。「信徒の独自の召命は、現世的な事がらに従事し、それらを神に従って秩序づけてゆくことによって神の国を追求することである。信徒は世俗の中に生きている。すなわち、世間のそれぞれのあらゆる務めと仕事に携わり、家庭と社会の一般的生活条件の中で生活するのであって、かれらの生活はいわばそれらによって織りなされている。かれらはそこに神から招かれたのであり、自分の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のためにあたかもパン種のように内部から働きかけ、こうして信仰・希望・愛の輝きをもって、特に自分の生活のあかしを通してキリストを他の人びとに現すよう召されている。したがって、かれらが密接に結ばれているすべての現世的な事がらが、絶えずキリストに従って行われ、発展し、創造主とあがない主の賛美になるように、それらすべてに光をあて方向づけを与えることは、特にかれらに託された使命である」(教会憲章31)。

これで明らかなように、信徒固有の召命と使命は特に世間の生活の中にあるのに対し、叙階の秘跡を受けた者の特別の召命は「聖職」に従事することであり、修道者の召命は真福八端の精神を生きて神の国をあかしすることであって、いわば脱世間の召命である。そこで公会議は言う。「信徒によらなければ教会が地の塩となりえない場所と環境において、教会を存在させ活動的なものとすることが特に信徒に与えられた使命である」(教会憲章33)。つまり、結婚と家庭はもちろん「政治・経済・社会」という世俗社会の中で教会の使命を果たすのが信徒である。

公会議はこの信徒固有の召命と使命を「信徒使徒職に関する教令」の中で次のように述べる・「キリストの救いのみわざは、もともと人の救いを目指すものであるが、それはこの世の秩序全体の刷新を含んでいる。したがって、教会の使命は、ただキリストの福音を告げてその恩恵を人々にもたらすだけではなく、この世の秩序をも福音的精神で満たし完成することである。それゆえに、教会のこの使命を遂行する信徒は、教会内においても世間においても、霊的な秩序においても現世的な秩序においても、その使徒職を果たすのである」(信徒使徒職に関する教令5)。

この最後のところで、公会議はこの世には「現世的な秩序」と「霊的な秩序」の二つの秩序があり、この二つは交錯し補完し合って「神の国」に統合されなければならないとして、次のように言う。「公会議は天上と地上の二つの国の市民であるキリスト者が、福音の精神に導かれて、地上の義務を忠実に果たすよう激励する」(現代世界憲章43)。 したがって、聖職者は霊的秩序を管轄し、信徒は現世的秩序を担当するものとされるのである。換言すれば、聖職者(司教司祭)は要理教育を通して信徒を養成し、また、ミサを中心とする典礼によって信徒を聖化してこの世に派遣するのであり、一方、この世に派遣された信徒は、神のみ旨に従ってこの世の一切のものを浄化して発展させ、また、聖霊においてキリストを通してこの世の一切のものを「霊的なささげもの」として御父に奉献する。

教皇ピオ12世は、第2バチカン公会議より以前に、すなわち1957年の「第2回信徒使徒職世界大会」において、「信徒使徒職」の目的は「世の聖別」(Consecratio Mundi)であると言われたという。実に適切な表現ではないかと思う。Consecratio は「聖別」または「奉献」である。信徒固有の使徒職とは、この世の一切のものを聖別し、これをみ心に叶う霊的ないけにえとして、聖体のいけにえに合わせて御父に奉献することである。

このように、第2バチカン公会議は、在俗のキリスト者である信徒の品位と使命を強調して、世界に開かれた教会を目指した。はじめに述べたように、教会人口の99,9パーセントを占める信徒たちが、各自が召されたその場所と境遇において、生来の才能と天与のカリスマに応じて教会の使命に参加すれば、神の国建設の大業は大きく前進するに違いない。