福音とは、世界を変える神の力

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > 福音とは、世界を変える神の力

福音とは、世界を変える神の力

カテゴリー 折々の想い 公開 [2012/10/15/ 00:00]

宣教師ザビエル

宣教師ザビエル

今月23日は「世界宣教の日」である。教会の本質的使命「福音宣教」についての使命感を高揚し、世界宣教の発展のために祈り献金する日である。しかし、宣教の使命感はあまり高いとは言えないようだ。そこで今回は、福音とは何か、福音宣教とは何であるかを考えてみたい。

現教皇ベネディクト16世は、その著書『ナザレのイエス』の中で、「福音」について次のように述べている。「福音は単なる情報伝達的(informative)な言語ではなく、行為遂行的(performative)な言語であり、単なる通知ではなく、行動であり、救済と変革の力をもって世界に働きかける力なのです」(第3章・神の国の福音)。福音とは単なるメッセージではなく世界を変える神の力であるということである。

教皇パウロ6世は、1975年に発布した使徒的勧告『福音宣教』の中で、福音宣教の目的について次のように書いている。「人類の階層の変革であるため、教会にとって福音宣教とは、ただ単に宣教の地理を拡大して、より多くの人々に福音をのべることだけではなく、神のみ言葉と救いのご計画にそむく人間の判断基準、価値観、関心の的、思想傾向、インスピレーションの源、生活様式などに福音の力によって影響を及ぼし、それらをいわば転倒させることでもあります」(19番)。

わが国では、福音宣教によって世界を変革することを「福音化」と呼んできた。一方、世界では、第二バチカン公会議の後、福音化のことを「インカルチュレーション」とも呼んでいる。人間としてのものの見方、考え方、そして生き方を総じて「文化」と呼ぶが、その文化を福音によって根底から変えることが福音化であり、インカルチュレーションである。

では、文化の根底には何があるのかと言えば、それは宗教であり、あるいは宗教に準ずる思想やイデオロギーである。そして、わが国文化の根底にあり、日本文化を特徴づけているのは、言うまでもなく神道(記紀神話)であり、仏教である。ちなみに、仏教の仏たちは神道の神々と同等のレベルで日本人に受け入れられたと仏教学者・末木文美士氏は次のように述べる。「仏が『他国神』とか『蕃神』(あたしくにのかみ)とか記録にあるように、日本の神と同じレベルで見られていたことは誤りあるまい」(日本仏教史)。これとともに、「本地垂迹」の思想が発展したという。「本地垂迹とは、本地、すなわち本来のあり方をしている仏が、垂迹、すなわち仮の姿をとって応現したのが神だという考え方である」(上掲書)。こうして、神仏習合が行われたことは周知のとおりである。

しかし、聖フランシスコが初めて日本に持ち込んだキリスト教は仏教とは趣を異にしていた。それは一神教であり、天地万物を創造した「超越的人格神」であった。そのため、神道と仏教に生かされてきた日本人はキリスト教に対して激しい抵抗を見せた。そのため、秀吉や徳川幕府はキリシタン奪国論を掲げ、厳しい摘発と残酷な迫害をもってキリスト教を禁止した。こうして26聖人を初め、多くの殉教者の血が国土を赤く染めた。

現代においては、日本社会もキリスト教も進化した。つまり、野蛮な殺し合いではなく、対話の時代を迎えた。人権主義や民主主義が日常化し、教会も諸宗教の中に善いもの、すなわち「神の言葉の種」を認めて尊重し、共に真理、すなわち「究極の実在」を求めて対話することが可能になったのである。

しかし、過去の経験が示す通り、多神教と一神教の対話は決して簡単ではない。だが不可能ではない。万人がその人間本性に刻まれた神の法をもち、良心の声を通じて神の言葉を聞いているのだから、互いの違いからではなく、共通の認識から対話を始めれば、真理への道は決して閉ざされることはないと確信している。それに、アリストテレスが言ったように、人間には真理を知りたいという抑えることのできない欲求がある。そして真理は必ず人間を変える。

ただ、わたしたちは諸宗教間対話に慣れていない。過去の対立の記憶もある。それらの障害を乗り越えて真理における一致に到達するためには、いっそう使命感を高め、隣人に福音を告げるための対話について学び、その実践について努力を続けなければならない。そうすれば、福音は必ず人々を真理に導き、救いにあずからせることができるであろう。