第2バチカン公会議の権威について

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第2バチカン公会議の権威について

カテゴリー 折々の想い 公開 [2012/11/01/ 00:00]

公会議公文書全集

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第2バチカン公会議の開幕50周年を記念する「信仰年」がいよいよ始まった。そこで、あらためてあの公会議とはどんな性格の会議であったか、その権威について考えてみたい。公会議の重要性が必ずしも十分に認識されているとは言えないからである。

公会議の特別な重要性を分かるためには、第2バチカン公会議の『神の啓示に関する教義憲章』(略して啓示憲章)第2章「神の啓示の伝達」を紐解いて見なければならない。神は昔、預言者たちを通して、そして最後には御子を通して人類に語られた。これが神の啓示と呼ばれ、「神の言葉」と呼ばれる。では、神が語った「言葉」、すなわち啓示は、どのようにして後代の人々に伝達されるのだろうか。この啓示の伝達が今問題なのである。

カトリック教会は初めから一貫して啓示は「聖書と聖伝」によって伝達されると教えてきた。問題が起きたのは16紀の宗教改革によって聖伝が否定され、「聖書のみ」が主張され、しかも聖書の自由解釈が強調されてからである。しかし、これによってカトリック教会の主張が変えられることはなかった。なぜなら、キリストの啓示は12使徒たちに託され、使徒伝承の中であるものは聖書に書かれ、あるものは教会の仕組みと実践の中で聖伝として後代に伝えられたからである。啓示憲章は述べる。

「実際、聖書は、聖霊の霊感(インスピレーション)によって書かれたものとして神の言葉である。そして聖伝は、主キリストと聖霊から使徒たちに託された神の言葉を余すところなくその後継者に伝え、後継者たちは、真理の霊の導きの下に、説教によってそれを忠実に保ち、説明し、普及するようにするものである」(啓示憲章9)。

要するに、聖書は「書かれた神の言葉」であり、聖伝は使徒継承によって伝えられる「書かれない神の言葉」である。そして、時代の進展とともに、時と所の必要に応じて神の言葉を正しく解釈して解き明かすのがペトロを頭とする使徒団とその後継者である教皇と司教たちであって、彼らの任務は「教会教導権」(Magisterium Ecclesiae)と呼ばれる。啓示憲章は言う。

「書き物、あるいは口伝による神の言葉を正しく解釈する役目は、キリストの名で権威を行使する教会の生きた教導権だけに任せられている。しかし、この教導権は神の言葉の上にあるものではなく、むしろこれに奉仕し、伝えられたことだけを教えるのである。すなわち、神の命令と聖霊の援助によって、神の言葉を敬謙に聞き、純粋に保存し、忠実に説明し、そして信ずべき神の啓示として示すすべてのことを、信仰の唯一の委託物からくみ取るのである」(啓示憲章10)。

こうして、神の啓示は「聖書と聖伝」によって伝達され、「教導権」によって公式に解釈され、説明されるのである。そのことから、公会議で指導的な役割を演じた神学者アンリ・ド・リュバクは、「聖書、聖伝、教導権の三つは、神の言葉がわれわれに到達する三重にして唯一の運河と考えられる」(アンリ・ド・リュバク著『教会についての黙想』=Meditation sur L’Eglise)と、運河にたとえている。公会議は運河とは言っていないが、この三者を一体のものとして、次のように説明している。

「それで、聖伝と聖書と教会の教導権とは、神の極めて賢明な配慮によって、一つは他のものから離れては成り立たず、全部が一緒に、そして各々が固有の仕方で、聖霊の働きの下に、救霊に有効に寄与するように、互いに関連し、統合されていることは明らかである」(同上)。

もっとも、教会教導権によって正しく解釈されるのは、信仰・道徳に関する教義的な教えについてであって、この解釈に従ってさえいれば、聖書は自由に読み、黙想し、その霊的な豊かさを享受することができる。

こうして、教皇と世界の司教団が一致して、聖書と聖伝に基づき、現代世界というコンテクストの中で教会について語り、その使命について語った第2バチカン公会議は、「単なる人間の会議」ではなく、「聖霊の導きよる神からの会議」であって、その声は主キリストの声として傾聴しなければならない。かつて主は、「あなたたちに聞く者は、わたしに聞く者である」(ルカ10,16)と言われたのである。つまり主キリストは、二千年前ではなく、20世紀という現実の時点で、公会議を通してわたしたちに語られたのである。そこに、第2バチカン公会議の権威があり、重要性がある。