行いのない信仰は死んだもの

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > 行いのない信仰は死んだもの

行いのない信仰は死んだもの

カテゴリー 折々の想い 公開 [2012/12/01/ 00:00]

殉教者、愛の証人

殉教者、愛の証人

信仰年を迎え、信仰の刷新を考えているうちに、「行いを伴わない信仰は死んだもの」(ヤコブ2,26)という聖ヤコブの言葉を思い出している。では、信仰を生かす「行い」とは何であろうか。

結論から始めよう。「信仰を生かす行い」とはすなわち「愛」であり、「愛すること」である。『カトリック教会のカテキズム』は言う。「神の愛に対する信仰には、真摯な愛をもって神の愛にこたえるようにという呼びかけと義務とが含まれています。第一の掟はわたしたちに、万事に越えて神を愛し、すべての被造物を通して、神のために愛することを命じます」(2093)。

この教えを理解するためには、まず、神の愛を知らなければならない。カテキズムは言う。「聖ヨハネは、『神は愛です』(1ヨハネ4,8)と言っています。神の存在そのものが愛なのです。時が満ちて御独り子と愛の霊を遣わすことによって、神はご自分のもっとも隠れた内奥を示されます。神は永遠に父と子と聖霊の愛の交わりでありますが、その交わりにわたしたちをもあずからせようと、お決めになったのです」(221)。「神は独り子を与えるほど、世を愛した」(ヨハネ3,16)のである。

その御子イエス・キリストは、十字架上に命をささげて人類を愛された。命をかけた奇異リストの愛は、人類に対する神の愛を示すとともに、神と人に対するわたしたちの愛の原型でもある。主は命じて言われる。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13,34)。だから、わたしたちは、キリストの愛に倣って、すべてに越えて神を愛し、すべてにおいて一を愛さなければならない。この愛なくしては、わたしたちの信仰は空しいのである。

聖パウロは書いている。「たとえ、人間の不思議な言葉、天使の不思議な言葉を話しても、愛がなければ、わたしは鳴る銅饠(どら)、響くシンバル。たとえ、預言の賜物があり、あらゆる神秘。あらゆる知識に通じていても、たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、愛がなければ、わたしは何ものでもない。たとえ、全財産を貧しい人に分け与え、たとえ、称賛を受けるために自分の身を引き渡しても、愛がなければ、わたしは何の駅にもならない」(1コリント13,1-3)。

第2バチカン公会議は、20世紀の現代において、教会とは何か、教会の使命は何であるかを問い、教会自体の刷新とともに、分裂しているキリスト教の一致を取り戻し、全人類への宣教の使命を新たにするために多くのことを語ったが、それらすべては神の愛にこたえるために、キリストの愛に動機づけられて、すべての人を愛することを目指したものであったということができる。

たとえば、信徒の宣教活動、すなわち信徒使徒職の基礎について次のように述べる。「信徒は使徒職を行う権利と義務を、かしらであるキリストとの一致から得ている。信徒は洗礼によってキリストの神秘体の肢体となり、堅信によって聖霊の力に強められ、主ご自身から使徒職へ任じられている。信徒が王的祭司職および聖なる民として聖別されているのは、すべての行動を霊的ないけにえとしてささげ、地上いずこにおいてもキリストのあかしとなるためである。諸秘跡、なかでも至聖なる聖体の秘跡によって、全使徒職の魂とも言うべき愛が授けられ養われる」(信徒使徒職に関する教令3)。

「全使徒職の魂である愛」という言葉に注目しなければならない。教会の全活動がキリストの愛に動機づけられ、キリストの愛にあずかって、すべてに越えて神を愛し、すべてにおいて人を愛するためである。

だから、教会共同体の司牧に当たる司祭たちへの勧告において、公会議は「司牧的愛」(Caritas pastoralis)について語る。「司祭は牧者的愛の実践の中にその生活と行動とを統一させる祭司的完徳の絆を見いだすであろう」(司祭の役務と生活に関する教令14)と述べ、、この「牧者的愛は聖体の秘跡から流れ出る」(同上)と強調している。