エクメニズムはプロテスタント化ではない

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エクメニズムはプロテスタント化ではない

カテゴリー 折々の想い 公開 [2013/01/01/ 00:00]

130101「別れた兄弟たち」への尊敬を表明してこの稿を書くことをお断りして、キリスト教一致運動(エクメニズム)のあり方について述べてみたい。エクメニズムはカトリック教会の「プロテスタント化」ではないからである。

第2バチカン公会議は、16世紀に起きたいわゆる「宗教改革」に対するカトリック教会の「反宗教改革」あるいは「自己改革」の完成であると考えられる。なぜなら、第2バチカン公会議は、聖書と聖伝に基づいて自己改革を徹底することによって、宗教改革を誘発した教会の病弊を取り除くと同時に、プロテスタント信仰の「誤りと欠陥」を指摘して、キリストが使徒たちを礎として建てた本来の教会を確立したからである。こうして、プロテスタントおよび東方正教会や英国教会に対して「教会一致」を呼びかける態勢が整えられたと考えてよい。

カトリック教会の刷新と教会一致への態勢は公会議公文書の全体にかかわることであるが、ここでは問題の基本を分かりやすくするために、『神の啓示に関する教義憲章』(略して『啓示憲章』)第2章「神の啓示の伝達」を基に考えてみることにしよう。

啓示憲章によれば、主キリストはご自分が完成した神の啓示、すなわち神の言葉を万国万代に伝えるよう、聖霊の賜物を与えて使徒たちに命じられた。「この命令は、キリストの言葉を聞き、キリストとともに生活し、そのわざを目撃して知ったこと、あるいは聖霊の示唆から学んだことを、口述説教と模範と制度をもって伝えた使徒たちによって、また同じ聖霊の霊感により救いの知らせを書き物にした使徒たちと使徒時代の人たちによって、忠実に遂行された」(啓示憲章7)。こうして、神の啓示、すなわち神の言葉は「聖伝」(使徒伝承)と「聖書」(書かれ神の言葉)と二つによって後代に伝達されることになった。

「したがって、聖伝と聖書とは互いに結ばれ、互いに共通するものがある。なぜなら、どちらも同一の神的起源をもち、ある程度一体をなし、同一の目的に向かっているからである」(同上9)と公会議は述べている。次いで公会議は、聖伝と聖書の権威ある解釈者として「教会の教導権」(Magisterium Ecclesiae)について述べる。「書き物、あるいは口伝による神の言葉を権威をもって解釈する役目は、キリストの名によって権威を行使する教会の生きた教導権だけに任せられている」(同上10)。そしてさらに言う。「聖伝と聖書と教会の教導権とは、神の極めて賢明な配慮によって、一つは他のものから離れては成り立たず、全部が一緒に、そして各々が固有の仕方で、聖霊の働きのもとに、救霊に有効に寄与するように、互いに関連し、結合されていることは明らかである」(同上)。

16世紀の宗教改革者たちは、上記の三つのうち「聖伝」否定して、「聖書」だけを信仰の規範として主張し、さらに、「教会の教導権」を否定して聖書の自由解釈を唱えた。こうして、カトリック教会の信仰とプロテスタント信仰との間には重大な違いを生じたのである。したがって、真のエクメニズムはこの重大な違いを明確に踏まえたうえで真剣に対話し研究して名実ともに正しい真の一致を目指すものなのである。この違いをごまかして安易に妥協し、あたかも教会一致はすでにできたかのようにふるまうのは邪道である。残念ながら、今のカトリック教会を見れば、公会議の教えや『カトリック教会のカテキズム』を敬遠して聖書だけを偏重し、主日のミサ参加や要理教育をおろそかにして恥じない現状はエクメニズムに名を借りた「カトリックのプロテスタント化」と言われてもおかしくないのではないか。互いの違いをあいまいにするエクメニズムは相手に対しても不誠実であろう。

エクメニズム、すなわち、互いに離れたカトリック教会と非カトリック諸教会との真の一致に至る道は極めて険しくて困難な道であり、遠くて長い道である。であればこそ、キリスト教一致を願う祈りは真剣で熱を帯びざるを得ないのである。教会が「キリスト教一致祈祷週間」を大切にして盛大な実施を期待するのもそのためである。