愛徳は、全使徒職のいわば魂
カテゴリー 折々の想い 公開 [2013/01/15/ 00:00]
ここに言われる「使徒職」についてはこう述べられる。「神秘体(筆者注:教会)の活動はすべて使徒職と呼ばれる」(教令2)とあり、したがって、「キリストの王国を全地に広めて、すべての人をあがないによる救いにあずからせ、その人々を通して全世界をキリストに秩序づける」(同上)ことが使徒職であり、この使徒職は教会が主キリストから引き継いだ使命であって、教会のすべての構成員、すなわち信者がこの使徒職に参加するよう招かれている。教令は言う。「キリスト者としての召し出しは、その本性上、使徒職への召し出しである」(同上)。在俗のキリスト者である「信徒」の場合は「信徒使徒職」と呼ばれる。
次に「魂」であるが、魂とは生命の原理であって、すべて生きているものにはそれ相当の魂があるとされ、精神的存在である人間の場合は「霊魂」と呼ばれる。このことにちなんで、教令は、すべての使徒職を生かすものは「愛」であるから、愛は使徒職の魂のようなものであると言っているのである。
では、全使徒職を生かすものとしての「愛」とは何であろうか。ここに言う「愛」とはすなわち「キリストの愛」に他ならない。キリストは人間となった神の愛であり、人類の救いのために十字架上に命を捧げられた。ご自分を犠牲にして人類のために尽くされたのである。このキリストの愛にあずかり、自分を捨てて隣人のために尽くすのが使徒職であると言ってよい。
使徒職の魂であるこの「愛」は、どこで得られるのであろうか。教令は答える。「諸秘跡、特に至聖なる聖体によって、全使徒職の魂とも言うべき愛が授けられ養われる」(教令3)。
まず、洗礼の秘跡において、聖性の恩恵とともに「愛徳」が授けられ、キリストの愛を生きる霊的な能力が与えられる。『カトリック教会のカテキズム』は、「聖三位の神は受洗者に『成聖の恩恵』、『義とする恵み』を与えます」と述べ、「これにより受洗者は、『対神徳』によって神を信じ、神に希望し、神を愛することができるようになります」(以上、1266番)と、人間の力を超えた超自然の「愛の力」が与えられると教える。
したがって、この愛は、人間の愛ではなく、神の愛(アガペ)であって、愛徳と呼ばれる。(ラテン語ではCaritas、英語はcharity、仏語はcharite)。この神の力としての愛徳は、堅信の秘跡により、聖霊の恵みによってさらに豊かにされ、受堅者は愛徳に満たされて使徒職に任命され派遣される。まさに、使徒職を生かす魂は「愛徳」なのである。
そしてさらに、この愛徳は「特に聖体の秘跡によって養われる」と教令は言う。人間の現世の命が食物によって養われ維持されるように、霊的な能力である愛徳も霊的な糧として与えられた聖体の秘跡によって養われるのである。言うまでもなく、聖体は十字架上で人類への愛のために犠牲になったキリストの体であるから、聖体拝領はキリストの愛の拝領であって、愛徳を養う糧なのである。
しかし、恩恵による愛徳は、生ぬるい信仰生活によって弱められ、罪によって失われることを忘れてはならない。愛徳を失わず忠実にこれを守るようにという警告や勧告は聖書に満ちている。たとえば、主キリストは有名なタレントのたとえ話において、いただいた賜物に忠実なよいしもべと怠け者の悪いしもべを対比しながら、「持っている人はさらに豊かになり、持っていない人は持っている物まで取り上げられる」(マタイ25,29)と戒めておられる。また、ゲツセマネの園においては、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りなさい」(マタイ26,41)と勧められた。多様化した価値観の世の中で、巧妙なサタンの誘惑に囲まれたわたしたちは、いただいた恩恵いとともに愛徳を失う危険に取り囲まれていることを忘れてはなるまい。
今日の教会において、もしも使徒的活動が減退し、活気を失っているとすれば、果たして愛徳の恵は生きて働いているかどうかをまず問わなければならない。信仰年の告示で教皇が言われた「信仰の深刻な危機」とは、もしかして愛徳の危機、使徒職の危機なのではないかと思うがどうだろう。調べてみる価値がある。