失われた日曜日の再発見

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失われた日曜日の再発見

カテゴリー 折々の想い 公開 [2013/02/01/ 00:00]

主の日

主の日

カトリック教会で言われる「復活秘義」とは、救い主イエス・キリストの死と復活の出来事であるが、人類の救いを成し遂げたこの復活秘義は、「第一の創造が完成したこと、そして新しい創造が始まったこと」を意味し、人類の歴史の中心かつ頂点となる出来事であった。

初代教会はこの卓越した出来事が実現した日曜日を新約の「安息日」として一堂に集まり、復活秘義を記念しかつ現在化してミサをささげた。この習慣は旧約時代の安息日にとって代わる、その実現として、教会の中心かつ最大の祝祭となってキリスト教をユデア教から区別し、かつまたローマなど異教の「太陽の日」を「真の太陽キリスト」の祝祭に変えた。こうして日曜日は、「主の日」または「主日」と呼ばれるようになり、信者共同体が集まって行う「主日ミサ」はキリスト信者の「あかし」または「しるし」となったのである。

使徒伝承に基づくこの主日とその中心であるミサの祭儀は三世紀位ごろから次第に信者の「守るべき掟・あるいは「義務」となり、教会のゆるぎない伝統となった。第2バチカン公会議の前には、主要な「教会の掟」の第一として、「主日と守るべき祝日とを聖日とし、ミサ聖祭にあずかるべし」とされていたことをご存じの方もあろう。第2バチカン公会議はこの伝統を堅持して述べた。

「教会は、キリストの復活の当日にさかのぼる使徒伝承により、復活秘義を、八日目ごとに祝う。その日は、それゆえにこそ、主の日、または主日と呼ばれている。この日、キリスト信者は一つに集まらなければならない。そして神の言葉を聞き、聖体祭儀に参加して、主イエスの受難と復活と栄光を記念し、イエス・キリストが死者のうちから復活されたことによって、生きる希望へと再生させたもうた神に感謝をささげるのである。したがって、主日は信者の信仰心に明示し強調されなければならない根源の祝日であって、こうして喜びの日、休息の日となるのである」(典礼憲章106)。

公会議後、1983年に公布された新しい教会法典は、主日の掟について次のように述べる。「主日およびその他の守るべき祝日には、信者はミサにあずかる義務を有する。そのうえ、神に捧げるべき礼拝、主日固有の喜び、または精神および身体の相当の休養を妨げる労働および業務を差し控えなければならない」(第1247条)。

また、1992年に公布された新しい要理書『カトリック教会のカテキズム』は主日ミサの義務について次のように述べる・

「主日のエオカリスチア(ミサ)は全キリスト教生活の基礎であり確認である。それゆえ、信者は掟で定められた日にミサに参加する義務がある。ただし、正当な理由(たとえば病気、乳児の世話)あるいはその固有の司牧者からの許可がある場合には、この義務から免除される。この義務を故意に守らない者は大罪を犯す」(2181番)。

「主日ミサの共同祭儀にあずかる者はキリストとその教会への帰属と忠実のあかしである。信者はそれによって信仰と愛における交わりを証明する。彼らは一つになって神の聖性と救いの希望の証人となる。彼らは聖霊の導きのもとに互いに支え合う」(2182番)。

以上のとおりであるが、この由緒ある伝統はいま危機にさらされている。第二次世界大戦後の世界は大きく様変わりして、複雑な慣習が日曜日のあり方を変動させている。特に週末のレジャーや文化活動などが主日の務めを困難にしているのである。しかし、日曜日を聖として神のささげ、主日ミサの義務を果たすことを欠かしてはならない。したがって、終末の諸行事と主日ミサの義務とをはっきり区別し、あらゆる手を尽くして両者の調和を図らなければならない。

その中の重要な手段として、日曜日のキリスト教的意義を再発見することは急務である。その意味で、1998年に発表された前教皇ヨハネ・パウロ2世の使徒的書簡『主の日――日曜日の重要性』(日本語訳はカトリック中央協議会発行1999年)はどうしても推奨すべき参考文献である。そこには、日曜日のキリスト教的意味が余すところなく説明されており、それは同時に、主日ミサがカトリック信者の生活の中心であるがゆえに、カトリック信仰のすぐれたカテケージスになっている。