神の十戒について≪総論≫その一
カテゴリー 折々の想い 公開 [2013/04/15/ 00:00]
カトリック教会はその生き方の基本として「神の十戒」を大切にしている。しかし近年、神の十戒への関心が薄れ、あまり大切にしない傾向も一部に表れている。そこで、あらためて神の十戒とは何かを、『カトリック教会のカテキズム』(以下、カテキズム)に従って見ていきたいと思う。
まず、カテキズムに掲載されている「神の十戒」は次のとおりである。
第1 わたしはあなたの主なる神である。わたしのほかに神があってはならない。
第2 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
第3 主の日を心のとどめ、これを聖とせよ。
第4 あなたの父母を敬え。
第5 殺してはならない。
第6 姦淫してはならない。
第7 盗んではならない。
第8 隣人に関して偽証してはならない。
第9 隣人の妻を欲してはならない。
第10 隣人の財産を欲してはならない。
神の十戒は、旧約聖書の中の「出エジプト記」20,2-17と、「申命記」5,6-21の二か所に記され、伝えられている。上に紹介した十戒は、元来複雑で長文のものを、聖アウグスチノが定めた要約で、カトリック教会の伝統となった区分である。
では、神の十戒とは何か、その起源について、カテキズムは次のように述べる。
「十戒の原語Decalogue(デカログ)は、文字通りには「十の言葉」を意味する(出エジプト13,28;申命記4,13、10.4)。この「十の言葉」を、神は聖なる山の上でご自分の民に示された。モーセによって書かれた種々の他の掟と違い、神は「十の言葉」を「ご自分の指」で書きとめられた(出エジプト31,18;申命記5,22)。それは卓越的な意味で神の言葉である。それは、出エジプト記と申命記の中でわれわれに伝えられている。旧約時代から、聖なる書物が「十の言葉」を参照しているが、その完全な意味は、新約時代にキリストによって啓示される」(2056番)。
少し説明しよう。日本語で「十戒」と訳されている原語は、ラテン語ではDecalogus、フランス語ではDecalogueで、これは「十」と「言葉」の組み合わせで「十の言葉」(十か条の言葉)を意味する。神はこの「十の言葉」をシナイ山上でご自分の民に与えられたが、それは二枚の石板に神ご自身の指で書き記されたものであった。だから、十の言葉はモーセによって書かれた他のいろいろの掟と違い、まさに特別な意味で「神の言葉」である。
次に、十の言葉は旧約時代に与えられたものであるが、その十全な意味は新約時代になってキリストご自身によって示されることになるという。ここにいう新約の神の民について、第2バチカン公会議の説明を見ておこう。
「キリストはこの新しい契約、すなわち御血における新約を制定されたのであって(1コリント11,25参照)、肉に従ってではなく霊において一つに結ばれた民、神の新しい民となるように、ユダヤ人と異邦人のうちから一つの民を召集された。
このメシア的な民は、頭としてはキリストをいただいている。このお民は、身分としては神の子らの品位と自由とを備え、彼らの中にはあたかも神殿におけるがごとく聖霊が住んでおられる。この民の律法としてはキリストご自身がわれわれを愛されたように愛せよとの新しい掟を有している」(教会憲章9)。
神とその民との旧い契約は、ホレブの山上(シナイ山)でモーセを通して結ばれた。「主は、ホレブでわたしたちと契約を結ばれた」(申命記5,2)とあるとおりである。そして新しい契約は、十字架上でキリストを通して結ばれた。キリストは、最後の晩餐の終わりに言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪の赦しのために、多くの人のために流される、わたしの契約の血である」(マタイ26,27-28)。この新約は旧約を完成するものであった。神の十戒は新約においてキリストの愛によって本来の意味を実現したのである。その意味するところについては、次回で考察することにする。