神の十戒について≪総論≫その二
カテゴリー 折々の想い 公開 [2013/05/01/ 00:00]
神の十戒はまず、人間を奴隷にするものではなく、逆に、奴隷状態から解放された者の生き方を示していると、カテキズムは述べる。
「十の言葉は、まず、旧約時代に行われた神の偉大な解放の御業、すなわち出エジプトの文脈で理解される。そこには、否定的な掟や禁止令もあれば、肯定形の掟(「あなたの父母を敬え」のような)もあるが、十の言葉は罪の奴隷から解放された生活のあり方を示すものである。十の言葉は生きる道なのである」(2057番)。
多くの人が、自分の思うままに自由に生きることを望み、またそのように生きているが、しかしそれは、むしろ欲望や罪の奴隷として生きていることを意味する。神の民に真の自由をもたらす十戒はそうした勘違いを正してくれよう。
次に、神の十戒は神の掟の要約であり宣言であって、「契約の証し」となることをカテキズムは明らかにして言う。
「十の言葉は、神の掟を要約し宣言する。すなわち、『主は、その山で、これらの言葉を、火と雲と暗闇の中から、あなたたち全会衆に、大きな声で告げられた。しかし、これだけで、他のことは何も加えられなかった。主はそれらを二枚の石の板に書き記して、わたしに授けられた』(申命記5,22)。それゆえ、この二枚の板は『証し』と呼ばれた(出エジプト25,16)。事実、これらは神とその民の間で結ばれた契約の条項を含んでいる。これらの『証しの石板』(出エジプト31,18;32,15;34,29)は『櫃』の中の納めなければならなかった(出エジプト25,16;40,1-2)」(2058番)。
続いてカテキズムは、十の言葉が「神の栄光とご意思の啓示」であると言う。
「十の言葉は、神の顕現の中で神によって語られたものである。『主は、山で火の中からあなたたちと顔と顔を合わせて語られた』(申命記5,4)。十の言葉は、神がご自身とその栄光について行われた啓示に属する。掟とは、神ご自身とそのご意思の贈り物である。ご意思を知らせることによって、神はご自身をその民に啓示されるのである」(2059番)。
十の言葉、すなわち掟と律法の贈り物は神とその民との契約の一部を形成する。
「掟と律法の贈り物は、神とその民とによって結ばれた契約の一部を成している。出エジプト記によれば、十の言葉の啓示は契約の提示と締結の間、すなわち、神の民が『主が告げられたことはことごとく行い、また聞き従います』(出エジプト24,7)と約束した後に、行われた。十戒は、契約を想起した後でなければ与えられなかったのである(『わたしたちの神、主は、ホレブでわたしたちと契約を結ばれた』(申命記5,2))」(2060番)。
神の十戒の本来の意味は、神が先にこの民を愛して罪の奴隷から解放したという、契約そのものから引き出される。
「掟は契約の内部からその完全な意味を受け取る。聖書によれば、人間の道徳生活は契約の中から、そして契約を通して、その本来の意味を得る。「十の言葉」の第一はその民のための神の最初の愛を想起する」(2061番)。
すなわち、主は言われた。「わたしこそ、お前をエジプトの地、奴隷の家から導き出したお前の神、主である」(申命記5,6)
したがって、掟の本来の意味は、神の愛への応答であり、神のご計画への協力である。
「固有の意味の掟はその後に来る。すなわち、掟は契約によって始まった神への所属を表現する。道徳生活は主が先に行われた愛への「応答」なのである。それは、神を認めて神に賛美することであり、また感謝して行う礼拝である。そしてそれは、歴史の中で働かれる神のご計画への協力である」(2062番)。
最後に、神の掟は神の民の一人ひとりへ名指しで与えられている。
神と人間との間の契約と対話は、すべての義務が一人称で述べられ(“わたしは主である”)、各個人に宛てられている(“あなた”)こととされる。すべての神の掟の中で、指定された相手は「単数」の人称代名詞で呼ばれる。神は、そのご意思を、民全体と同時に、各個人に対して明らかにされたのである」(2063番)。