人間の良心を補完する十戒の啓示
カテゴリー 折々の想い 公開 [2013/05/15/ 10:11]
「十の掟は神の啓示に属する。それと同時に、それは、人間の真の人間性をわたしたちに教える。それは、本質的諸義務を、したがって、間接的に、人格の本性に内在する基本的諸権利を明らかにする。十戒は“自然法”の特権的な表現を包含している」(2070番)。
つまり、神は十の掟を与えることを通して、ご自分を啓示すると同時に人間を啓示し、神に対する人間の本質的義務とその基本的権利とを明らかにするのである。それは、人間に関する“自然の法”を表現するものなのである。換言すれば、十戒を通して人間の基本的なあり方、生き方が示されるのである。だから、カテキズムの2070番は付則として次のように聖イレネオの言葉を引用している。
「神は、初めから、人間の心に自然法の掟を植え付けたのである。神はそのことを人間に想起させることをよしとされた。これが十戒であった」(同上)。
人間の心に刻まれた自然の法は人間の理性によって知られる。人間の倫理的なあり方についての理性の判断は「良心」と呼ばれる。それゆえ、「良心の声は神からの心の声」ともいわれてきた。でも、良心の声があるのに、なぜ、あえてその啓示の必要があったのか。カテキズムは次の項でそれに答えている。
「理性だけで理解できるにもかかわらず、十戒は啓示された。自然法が要求することの正しくかつ完全な理解に達するために、罪深い人間はこの啓示を必要としたのである。
すなわち、罪の状態においては、理性の光の暗みと意思の逸脱のゆえに、十の掟の完全な説明が必要であったのである。
教会において提示される神の啓示と、倫理的良心の声によって、わたしたちは神の掟を知るのである」(2071番)。
こう見てくると、わたしたち人間には知的謙遜と神の声を注意深く聞く信仰が要求されていると分かる。確かに人間の理性は素晴らしい。先日、大栗博司著の『重力とは何か』(幻冬舎新書・2012年)を読ませてもらったが、「アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る」説明を聞いて、現代物理学の途方もない広がりや精密さに驚嘆したのであるが、にもかかわらず、人間性は原罪と自罪に傷ついて弱められ、しばしば無知と迷いにさいなまれていることを忘れるべきではない。科学がどんなに進歩しても、物質を超えた霊の世界については、肉眼ではもちろん、電子顕微鏡を使っても、見ることも測ることもできないのである。
そのため、人間理性は心に刻まれた神の法をある程度は理解できるとしても、その全貌を見通すことなどとうてい叶わない。したがって、神の十戒の啓示によって、人間理性の弱さと欠陥を補い、神が望まれた人間のあり方を余すところなく知らされる必要があったのである。
したがって、人間は神の前に謙虚にひざまづいてその教えを請わなければならない立場にある。この信仰の立場を最も妨げたのは人間の知的高慢であり、その態度をたしなめて聖書は警告する。「神は高ぶる者に逆らい、へりくだる者に恵みをお与えになる」(1ペトロ5,5;ヤコブ4,6)。
しかし、現代は近代合理主義が幅を利かす時代であり、それはますます猛威を振るいつつある。でも、あえてわたしはキリストの言葉を借りて言いたい。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1,15)。そうすれば、良心の声はより明らかとなり、現代世界の迷路から抜け出すことができるに違いない。