教会の伝統の中の十戒

教会の伝統の中の十戒

カテゴリー 折々の想い 公開 [2013/06/01/ 00:00]

130601 先々回から神の十戒の啓示とその意味について見てきたが、今回は神の十戒がカトリック教会の伝統の中でどのように大事にされてきたかについて、『カトリック教会のカテキズム』(以下カテキズム)に従ってみてみよう。

教会の伝統は、聖書への忠実とイエスの模範に従って、十戒本来の重要性と意味を認めてきた(2064番)。そして、聖アウグスチノ以来、“十の掟“は洗礼志願者や信者のカテケージスにおいて重要な位置を占めてきた。15世紀には、十戒の掟を暗記しやすく韻を踏んだ肯定的な文章に表現するようになった。それは今日も守られている(2065番)。掟の区分と数え方は歴史の流れの中でさまざまであった。現在のカテキズムでは、聖アウグスチノによって確立され、カトリック教会において伝統的になった掟の区分に従っている(2066番)。

現在カトリック要理に掲載されている十戒の文章は先に紹介したが、わたしが子どもの頃唱えていた文語体の十戒をここに紹介しよう。

  第一 われは主なるなんじの天主なり、われのほかいかなるものをも天主となすべか

らず。

  第二 なんじ主なる天主の名をみだりに呼ぶなかれ。

  第三 なんじ安息日を聖日とすべきことを覚ゆべし。

  第四 なんじ父母を敬うべし。

  第五 なんじ殺すなかれ。

  第六 なんじ姦淫するなかれ。

  第七 なんじ盗むなかれ。

  第八 なんじ偽証するなかれ。

  第九 なんじ人の妻を恋うるなかれ。

  第十 なんじ人の持ち物をみだりに望むなかれ。

この十の掟は神と隣人への愛が要求することを表現している。初めの三つの掟はより神への愛に、そのほかの七つの掟はより隣人への愛に関連している。聖アウグスチノは言っている。「主がすべての律法と預言者がそれに基づいていると言われた愛に二つの掟が含まれているように、十の掟も二つの石板に分けられた。三つは一つの石板に、七つは他の石板に書き記された」(2067番)。

最も重要な掟について主が言われたことをここに想起しておこう。「ファリザイ派の一人がイエスを試みようとして、『先生、どの掟が律法のうちでいちばん重要ですか』と尋ねた。イエスは答えて、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛せよ』。これがいちばん重要な、第一の掟である。第二の掟もこれに似ている。『隣人をあなた自身のように愛せよ』。すべての律法と預言者の教えはこの二つの掟に基づいている」と仰せになった」(マタイ22,35-40)。

要するに、十戒は、この二つの愛のおきてに包含されるのであるが、十戒を守る義務についてカテキズムは、次のように二つの公会議を引用して述べる。

「トリエント公会議は、十戒はキリスト者の義務であり、義化された人もまたこれを守る義務があると教える。そして第2バチカン公会議は、『司教は使徒の後継者として、すべての人が信仰と洗礼と掟の順守を通して救いに達するように、…主から、あらゆる国民に教え、全被造物に福音を宣教する使命を受けた』と宣言している」(2068番)。

カテキズムはこの後、十戒の各論について詳細に教えているが、それは、現代生活が文明の発達と共に多岐にわたり、また複雑極まりない様相を呈する中で、あらゆる問題について十戒の真意を解明するためであり、特に、社会生活に関する十戒の教えは「教会の社会教説」(社会的教え)と呼ばれている。十戒の啓示が人間の良心を照らし完成するものである以上、十戒の教えはキリスト者ばかりではなく、すべての人に社会倫理に関する良心上の規範として与えられていることも、ここに強調しておきたい。