キリスト者と神の十戒

キリスト者と神の十戒

カテゴリー 折々の想い 公開 [2013/06/15/ 00:00]

130615 神の十戒について各論に入る前に、新約時代の神の十戒、いわばキリスト者にとっての十戒について見ておくことが大事であろう。新約時代とキリスト者の生き方の中で十戒を理解することが必要だからである。

「キリスト者よ、あなたの偉大さをわきまえよ。今やあなたは神の本性にあずかっているのだから、過去の堕落した生活に戻ってこれを失ってはならない」(聖レオ一世)。『カトリック教会のカテキズム』はこの言葉を引用して次のように解説する。

「キリスト者は“再生の秘跡”によって“神の子”(ヨハネ1,12)、“神の本性あずかるもの”(2ペトロ1,4)となる。キリスト者は、信仰によって自分の新しい尊厳を自覚し、これからは“キリストの福音にふさわしい生活”(フィリッピ1,27)をおくるよう召されている。それができるよう、彼らは諸秘跡と祈りによってキリストの恩恵とその霊の賜物を受ける」(1692)。

ちなみに、キリスト者になるための入門の秘跡、すなわち洗礼の秘跡の恵み(効果)について教える『カトリック教会のカテキズム』の条項を見てみよう。

「洗礼は単にすべての罪から清めるだけでなく、受洗者を“新しい被造物”(2コリント5,17)、“神の本性にあずかる者”(2ペトロ1,4)となった神の養子、キリストの肢体、キリストと共同の相続人(ローマ8,17)、聖霊の神殿と成す」(1265)。

「聖三位の神は受洗者に盛聖の恩恵、義化の恩恵を与える。これによって受洗者は、

――対神徳によって神を信じ、神に希望し、神を愛することが可能となり、

――聖霊の賜物によって聖霊の促しに従って生きかつ行動する能力が与えられ、

――倫理徳によって善のうちに成長することができるようになる。

このように、キリスト者の超自然的な生活の機能は聖なる洗礼に根ざしている」(1266)。

「…洗礼は、受洗者を“教会”に合体させる。洗礼の泉から、新約における唯一の神の民が生まれるのであって、これは、国や文化、種族や性別などのあらゆる自然的あるいは人間的な限界をすべて超える。“実に、わたしたちは洗礼を受けてみな一つの霊によって一つの体に組み入れられたのである”(1コリント12,13)」(1267)。

以上のように、キリスト者は洗礼の秘跡によってキリストとその教会に結ばれ、聖霊において神の子、神の民として、神を愛し隣人を愛して生きるのである。その生き方は、もはや自然の領域を超えて、超自然的な“神の国”を生きるのであって、キリストが言われた通り、「神の国とその義を求めて」生きることに他ならない。そこで主は言われた。「あなた方は、わたしが律法や預言者たちを廃止するために来たと思ってはならない。廃止するためではなく、成就するために来たのだ」(マタイ5,13)。ここにいう「成就する」とは、旧約の掟や教えによって予告されたことを実現するというばかりでなく、完全なものとすることを意味する。

したがって、主は言われる。「あなた方に言っておく。もしあなた方の義が、律法学者やファリザイ派の人々の義に勝るものでなければ、あなた方は決して天の国に入ることはできない」(同上)。キリスト者は、旧約の掟や教えを頑として守る律法学者やファリザイ派の人々のレベルをはるかに超えて、洗礼によっていただいた超自然の機能によって、キリストのように生きるのである。

それ故、神の十戒は、キリストによって廃止されることなく、かえってより内面化され、より完全なものとされる。つまり、神の十戒に込められた父なる神のご意思、ご計画は、キリストによって完璧に解き明かされたのである。同時に、神の十戒を完全に実践するための超自然的な能力と機能が人間に与えられる。洗礼によってキリストに結ばれ、聖霊の武具を身にまとったキリスト者は、神の十戒を完ぺきに実行することが保障されるのである。

したがって、初めに紹介したカテキズムの言葉、すなわち「それができるように、キリスト信者は諸秘跡と祈りによってキリストの恩恵と聖霊の賜物を受ける」をもう一度強調したい。諸秘跡とは、洗礼と堅信に続く五つの秘跡のことであって、特にその頂点をなす聖体の秘跡、すなわちミサ参加は、神の十戒を完ぺきに実行するために不可欠のものであって、主日のミサを欠かすことなく、その恵みを祈りの生活を通して生きていくキリスト者は、まさに「神の国とその義」を生きることになるであろう。