第二戒:神の名によって生きる
カテゴリー 折々の想い 公開 [2013/07/16/ 00:00]
「第二の掟は、主の名を敬うことを命じる。これは、第一の掟と同様、敬神徳に属する掟で、いっそう特別に、聖なる事柄に関する言葉の使用を規制する」(n.2142)。
「神の啓示の全体の中で、神の名の啓示は一種独特である。神はご自分を信じる人々にその名を明かすが、それは、ご自分の神秘を明かすことである。名の賜物は信頼と親密の世界に属する。“主の名は聖である”。それ故、人はこれを乱用してはならない。人は、愛と礼拝の沈黙の中で、神の名を記憶に留めなければならない。神の名を語るのは、祝福し、賛美し、栄光を称えるためでなければならない」(n.2143)。
「神の名に対する尊敬は、すなわち神ご自身の神秘とそれが表わす一切の聖なる現実への尊敬を意味する。“聖なるものの感覚”(sensus sacri)は敬神徳に属する」(n.2144)。
神はご自分の民に信頼と親密さの情をこめてその名を啓示された。まず、旧約の民イスラエルには、名を問うモーセに対して、神は「わたしは存在する者である」(出エジプト3,14)と啓示された。これは、イスラエルの神は自ら存在する者であって、造られた物ではなく、逆に、天地万物を創造し、これを主宰する者であるという、神の本性、すなわち神の超越的な主権を表現している。この啓示に従って、旧約の民は、自分たちの神のことを”アドナイ“と呼ぶことになる。訳して“主”(しゅ)であり、神がひとり天地万物を支配する主権者であることを表している。「わたしたちの主は、すべての神々を超えて偉大な方」(詩篇135,5)。
新約時代になって、新しい神の民・教会は“イエス・キリスト”を主と呼ぶようになった。父なる神が、人類救済のために聖霊において人となった御子を「キリスト」そして「主」とされたからである(使徒言行録2,16参照)。これは人間性がキリストにおいて御父と同様に天地万物を支配する主権者であることを示すものである。これは同時に、新約は新しい神の名を啓示することになった。すなわち、父と子と聖霊の三位の名の啓示である。これは、神のいのちの神秘が、父と子と聖霊の聖なる交わりのいのちであるとの啓示である。
こうして、わたしたちは、主なるキリストの救いを信じ、父と子と聖霊の名によって洗礼を受け、三位一体の神の神秘のいのちにあずかって神の子らとなり、三位一体の神の名に生きてその栄光を称えるのである。『カトリック教会のカテキズム』は教える。
「洗礼の秘跡は“父と子と聖霊の名によって”授けられる(マタイ28,19)。洗礼の秘跡において、主の名は人を聖化し、そしてキリスト者は教会においてその名を授けられる。これは聖人の名、すなわち、主であるキリストに模範的に忠実に生きた弟子の名である。こうした聖人の保護(patrocinium)は愛のモデルを提供し、また、その仲介を保証する。“洗礼名”は、キリスト教的神秘を表現するもの、あるいはキリスト教的徳であることもできる。“代父や代母と主任司祭は、キリスト教的な意味以外の洗礼名を与えないように注意しなければならない”(新教会法典855)」(n.2156)。
「キリスト者は、その一日、その祈り、そしてその行動を十字架のしるしと、「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」という祈りによって始める。受洗者(洗礼を受けた者)は一日を神の栄光のために奉献し、また、父の子として聖霊のうちに生きることができるよう、主の恵みを願い求める。十字架のしるしは誘惑や試練の中でわたしたちを力づける」(n.2157)。
「神は一人ひとりをその名で呼ばれる(ヨハネ10,3参照)。人の名はすべて聖なるものである。名は人格のイコンである。名は名乗る者の尊厳のしるしとして尊敬されなければならない」(n.2158)。
「授けられた名は永久の名である。神の国において、神の名を記された各人格の神秘的で固有の性格は、光に満ちて輝くであろう。“勝利者に(…)、わたしは白い小石を与えるが、その小石には、それを受ける者のほかだれも知らない新しい名が記されている”(黙示録2,17)。“見よ、子羊がシオンの山に立っていた。そして、この子羊と共に14万4千の人々がいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名が記されていた”(黙示録14,1)」(n.2159)。
以上の通り、人は神の名の啓示により神に親密に結ばれ、神の名にふさわしく生きて神に栄光を帰し、永遠の救いにあずかるのである。