第三戒:主と共に休息する日曜日
カテゴリー 折々の想い 公開 [2013/08/01/ 00:00]
さて、第三戒の文言は極めて短いが、その意味するところは深く広い。そこでまず、『カトリック教会のカテキズム』に従って、「主の日を心に留める」とはどういうことかを見てみよう。
「十戒の第三の掟は、安息日が聖であることを想起する。“七日目は完全に休息する主の聖なる安息日である”(出エジプト31,15)」(n.2168)。
「聖書は安息日に天地創造を記念させる。“主が六日の間に、天と地とその中のすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福してそれを聖別された”(出エジプト20,11)」(n.2169)。
「聖書はさらに、主の日がイスラエルがエジプトの奴隷から解放された記念であることを明らかにする。“お前はエジプトの地で奴隷であったこと、お前の神、主が強い手と伸ばした腕とをもって、お前をそこから導き出したことを記憶に留めなければならない。それ故、お前たちの神、主は安息日を守るよう、お前に命じたのである”(申命記5,15)」(n.2170)。
要するに、安息日は、神が6日間の創造のわざのあと、七日目に休息されたこと、そして、旧約の民がエジプトから解放されたことの記念として制定されたのである。次いでカテキズムは、これらと同時に、安息日が神とその民の契約のしるしとして守らなければならないことを強調して述べる。
「神はイスラエルに、破棄できない契約のしるしとして安息日を守るよう委託された(出エジプト31,16)。安息日は主のために、神とその業、すなわち天地創造とイスラエルのための救いの業を称えるために聖なるものとして保留されたのである」(n.2171)。
カテキズムはさらに、週の七日目の安息日から、「キリストの復活」の日であり、「新しい創造」の日である週の第一の日・日曜日に変えられたこと、また、日曜日が安息日の成就であることを明確にする。
「イエスは、“週の第一の日に”に死者の中から復活した。“一日目”として、キリストの復活は第一の創造を想起させる。安息日に続く“八日目”として、キリストの復活と共に開始された新しい創造を意味する。この日は、キリスト者にとって、すべての日々の第一の日、すべての祝日の中の第一の祝日、主の日、“主日”となったのである」(N.2,174)。
「日曜日は安息日とははっきりと区別される。日曜日は、暦の上では毎週、安息日に続く日であるが、キリスト者にとって儀式的規則は安息日のそれに取って代わる。キリストの復活秘義において、ユダヤ教安息日の霊的真理は完成され、神における人間の休息を予告する。なぜなら、律法の礼拝はキリストの秘義を準備し、そして、そこで行われていたことは、キリストに関連するいくつかの出来事の前表であった」(n.2175)。
次に、「主の日を聖とする」ために何をしなければならないか。それはまず、キリスト者は仕事を休み、小教区教会に集まってミサをささげなければならない。カテキズムは言う。
「神が“行われたすべての業を七日目に休まれた”(創世記2,2)ように、人間生活は仕事と休息とで律動している。主日の制度は、すべての人が休息の時を享受し、家族的、文化的、社会的、そして宗教的な生活を培うことを可能にすべく貢献している」(n.2184)。そこで、神の掟を具体化するカトリック新教会法典は次のように述べる。「主日及びその他の守るべき祝日には、信者は、神にささげるべき礼拝、主日固有の喜び、又は精神及び身体の相当の休養を妨げる労働及び業務を差し控えなければならない」(第1247条)。
「“主日及びその他の守るべき祝日には、信者はミサにあずかる義務を有する”(新教会法典1247条)。“当日又は前日の夕刻、いずこにおいてもカトリックの儀式によって捧げられるミサにあずかる者は、ミサにあずかるべき掟を果たすことになる”(教会法典第1248条)」。
カテキズムは、ミサにあずかる義務を強調した後、重大な理由があるか、または主任司祭から免除を受けた者には、ミサ参加の義務が免除されると述べ、さらに、主日のミサ参加は「キリスト者の証し」であると、次のように述べる
「共同で行われる主日のミサに参加することは、キリストとその教会に対する所属と忠実の証しである。主日のミサ参加によって、信者は信仰と愛における一致を証明する。彼らは、共同で神の聖性と救いへの彼らの希望を証する。彼らは互いに聖霊の導きのもとに力づけられる」(n.2182)。
以上のとおりであるが、この小論で主の日の豊かさを十分に説明することができない。そこで、主の日についての豊かな解説でありカテケージスである福者ヨハネ・パウロ2世教皇の使徒的書簡『主の日――日曜日の重要性』(カトリック中央協議会)を読まれるよう、ここに紹介し、推奨しておきたい。