第四戒(1):“あなたの父母を敬え”
カテゴリー 折々の想い 公開 [2013/08/16/ 00:00]
このことに関して『カトリック教会のカテキズム』は次のように述べる。
「第四の掟は、表現としては、父と母との関係において子どもたちに宛てられている。なぜなら、この関係はもっとも普遍的なものだからである。これは同時に、家庭における近親者の関係にも適用され、祖父母や祖先に対する尊敬、愛情、そして感謝を要求する。第四戒はさらに、指導者に対する門弟の、雇用者に対する被雇用者の、上司に対する部下の、祖国やその為政者に対する国民の義務にまで広げられる。
この掟には、言外に、両親や保護者、指導者、上司、行政官、統治者など、すべて他人や共同体の上に権威を行使するすべての者の義務を含んでいる」(n.2199)。
今回は「家族制度とその使命」について述べ、次回に「国家権力とその使命」について述べたいと思う。
最近は人間の自由についての履き違えが横行し、同性婚は人間の権利(自由)であるかのように論じられ、遂には法律でこれを認める国が増えて来ているが、とんでもない話である。結婚と家庭は創造主である超越的な神が定めた制度であって、世界の初めに、神は人を男と女に造り、互いに助け合って生きるよう結婚のきずなによって結んで下さった。そして「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言って子どもを産み育てる使命をお与えになった。
したがって。結婚の目的は「夫婦の和合と子どもの出産・教育」にある。特に子どもの出産については、夫婦は神の協力者となる。つまり、夫婦は子どもの体を用意するが、これを生かす魂は,その都度、神の創造の手によって造られる。こうして、子供の出産は一つの“神秘”であり、したがって、子どもを産み育てる家庭は“いのちの聖域”と呼ばれるのである。わが国では、こうしたキリスト教的な認識はなかったとしても、子どもは“神様からの授かりもの”として大切の育てたものだった。
夫婦の共同生活の場であり、同時に子どもの出産と教育を通して新しい社会人を世に送り出す家庭は、“社会の生きた細胞”と呼ばれてきた。『カトリック教会のカテキズム』は「社会生活の原初の細胞」(la cellule originelle de la vie sociale)と呼んでいる。社会は結婚と家庭から始まるのである。そのため、“家庭の健全性は社会の健全性のバロメーターである”とも言われてきた。このような意味において、結婚と家庭は社会と緊密に結ばれた制度であって、その健全な営みは人類の発展に欠かせないものである。したがって、国家は「補完性の原理」に従って家庭を保護し、その価値を擁護しなければならない。
こうして、夫婦は子どもを産んで親となり、子どもを“私有物”としてではなく、神から預かった“神の子”として大切に育てなければならない。そのために、神は両親に権威を与え、その権威によって子どもを立派な人間、社会人、そして神の子に育て上げるのである。一方、子どもは両親の後ろの神の存在を認め、両親の正しい命令を神の命令としてこれに従わなければならないのである。これが、第四戒がいう“あなたの父母を敬え”の主旨である。ただし、言うまでもないことだが、道徳に反する親の命令には従ってはならないし、両親の不正に協力してもならないのである。
ところで、両親の権威は子どもを育てるためなので、子供は成人した暁には両親への従順の義務から解放される。ただし、子どもは発達年齢とともに大人になっていくのであるから、かなり早い時期から「親への従順から自らの良心への従順」に切り替えていかなければならない。両親の方でも、子どもの幼い時から子どもの良心の形成に心を配り、子どもが自立していくのを助けなければならないであろう。子どものしつけは幼いうちには厳しく、年齢を進むに従って自分で善悪や行動の可否を判断するように導くのである。
しかし、子どもは成人して従順の義務から解放されても、両親への孝養の義務は生涯続くことを忘れてはならない。特に、老後の親に対する扶養の義務を大切にする必要があろう。最近風潮を見ると、親は子供からの助けを求めない傾向があり、子どもの方でも親の扶養を忌避して生活保護などの「公助」に頼る傾向も見られ、メディアや世論もこれを後押ししているようにも見える。悲しいことではないか。公助はあくまで補完的な援助であることを忘れてはなるまい。