第五戒(1)殺してはならない

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > 第五戒(1)殺してはならない

第五戒(1)殺してはならない

カテゴリー 折々の想い 公開 [2013/09/17/ 00:00]

長崎市・カトリック中町教会のステンドグラス

主の誕生

神の十戒の第五は“殺してはならない”と表記されて、きわめて簡潔であるが、第五戒が命じる事柄は、現代の世相に鑑みて、極めて多岐にわたる問題に適用され、解説されているから、『カトリック教会のカテキズム』(以下カテキズム)に従ってじっくりと見ることにする。

人命尊重の理由

カテキズムは初めに、なぜ人命は尊重されなければならないか、を明確にする。

「人間のいのちは神聖である。なぜなら、人間のいのちはその起源から神の創造になるものであって、常に、その唯一の目的である創造主との特別な関係に置かれているからである。その始めから終わりまで、神のみが人間のいのちの主であり、したがって、だれも、いかなる場合にも、罪のない人のいのちを故意に断つ権利が人間にあると主張することはできない」(n.2258)。

ここに示された「いのちの尊厳」に関する教えは、以下に展開される第五戒の考察の大前提となる教えである。

聖なる歴史の証言

カテキズムは次に、聖なる歴史、すなわち人類救済の歴史の中で、第五戒はどのように示されてきたかを明らかにする。

「聖書は、その兄であるカインによって行われたアベルの殺害物語において、人類史の初めから、人間には原罪の結果として怒りや欲望のあることを啓示する。人間は人間の敵となった。神は兄弟殺しの悪辣な行為について言われる。“何ということをしたのか。お前の弟の血がわたしに叫んでいる。土は口を開いて、お前の手から弟の血を受けた。今やお前は土に呪われる”(創世記4,10-11)」(n.2259)。

「神と人間の契約は、神の賜物である人間のいのちと人殺しという暴力との記憶で織りなされている。

“わたしは、お前たちのいのちの血の値を必ず要求する。(…)人の血を流す者は誰でも、人によって血を流される。神にかたどって、人は造られたからである”(創世記9,5-6)。

旧約聖書はいつも、血はいのちの聖なるしるしであると考えてきた。いつの時代においてもこの教えは必要である」(n.2260).

「聖書は第五戒の禁止事項を次のように明確にする。“罪のない人、正しい人を殺してはならない”(出エジプト23,7)。罪のない人の意図的殺害は、人間存在の尊厳、黄金律(筆者註)、そして創造主の聖性に反する重大な罪である。これを定める法は普遍的に有効であり、常に、何処においても、すべての人と個人とに義務となる」(n.2261)。

「山上の垂訓において、主は、“殺してはならない”(マタイ5,21)という掟を喚起し、そこに怒り、憎み、そして復讐の禁止を付け加えられる。そのうえ、さらに、キリストは弟子たちに、右の頬を打つ者にはほかの頬を向け(マタイ5,39)、敵を愛する(マタイ5,44)よう要求される。主ご自身、自分の身を守ろうとせず、ペトロには剣を鞘に納めよと言われた」(n.262)。

以上、聖なる歴史、すなわち人類の堕落とその救済の歴史において第五戒の全貌が示されたが、人類史と共の始まった人命侵害や人格侵害は、いまも生々しい現実として、しかも多様な形で人類を覆っている。第2バチカン公会議はこれを次のように表現する。

「あらゆる種類の殺人・集団殺害・堕胎・安楽死・自殺などすべて生命そのものに反すること、障害・肉体的および精神的拷問・心理的強制などすべて人間(ペルソナ・人格)の十全を侵すこと、人間以下の生活条件・不法監禁・流刑・どれい的使役・売春・人身売買などすべて人間の尊厳に反すること、また労働者を自由と責任ある人間(ペルソナ・人格)としてではなく、単なる道具として扱うような悪い労働条件など、これらすべてと、これに類することはまことに破廉恥なことである。それは文明を毒し、そのような危害を受ける者よりは、そのようなことを行うものを汚すのであって、創造主に対するひどい侮辱である」(現代世界憲章27)。

旧約の選びの民・イスラエルとの契約の中で、「殺してはならない」との言葉をもって人命尊重を命じられた神は、人となった神の子キリストの贖いを通して、第五戒の教えをより内面化して広げると同時に、「まことの愛」を人類に取り戻し、自らの模範を示して、真の平和への道を開かれたのである。

次回からは、人命尊重の各論をカテキズムに従って考察することにする。

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(註) 黄金律(仏la regle d’or; ラregula aurea)とは、マタイ福音書7,12にある次の言葉のことである。「何事につけ、人にしてもらいたいと思うことを、人にもしてあげなさい」