第五戒(3)殺人の禁止について

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > 第五戒(3)殺人の禁止について

第五戒(3)殺人の禁止について

カテゴリー 折々の想い 公開 [2013/10/15/ 00:00]

長崎市・カトリック中町教会のステンドグラス

最後の晩餐

わが国においては、殺人事件の報道がない日はないぐらいに殺人が多い。それに、一定の理由があれば堕胎が法的に許されている。こうした実情に鑑み、第五戒による殺人の禁止について学ぶことは大いに意義があろう。

まず、故意の殺人についてカテキズムは教える。

「神の第五戒は意図的な直接殺人を重大な罪としてこれを禁じる。殺人者と、殺人に意識して協力する者は、天に向かって復讐を哀訴する罪悪を犯すことになる(創世記4,10参照)。

子殺し、兄弟殺し、親殺し、そして配偶者殺しは、自然のきずなを断ち切るがゆえに、特別に重大な罪である。優生学上、公衆衛生上の配慮は、たとえ公権に命じられたとしても、殺人を正当化する理由にはならない」(カテキズムn.2268)。

「神の第五戒は人の死を間接的に引き起こす意向をもって何かをすることを一切禁じる。道徳法は、重大な理由なしに人を死の危険に晒し、また、死の危険にある人を助けるのを拒むことを禁じる。

人間社会が、救済策を講じることなしに餓死を容認することは、恥ずべき不正であり重大な過失である。人間としての兄弟たちの飢餓や死を引き起こす金融や売買を行う商人は間接的な殺人を犯す者である。間接殺人を犯す者は罪に問われる。

意図しない殺人は倫理的には罪に問われない。ただし、たとえ意図したのではないとしても、相応の理由なしに死に至らせることを行った者は、重大な過失責任を免れるいことはできない」(n.2269)。

次に、カテキズムは妊娠中絶について詳しく論じる。

「人のいのちは、受胎の瞬間から無条件に尊重され守られなければならない。人間の存在は、その最初の瞬間から、人格としての諸権利が認められなければならないが、その中には、罪なき者のいのちへの不可侵の権利がある(生命の始まりに関する教書1,1)。

“わたしは、お前を母の胎内に形づくる前から、お前を知っていた。お前が母の胎から生まれる前に、わたしはお前を聖別した”(エレミア1,5)。

“わたしの骨はあなたに隠されていなかった。わたしがひそかに造られ、地の深い所で織り上げられたときでさえ”(詩篇139,15)」(カテキズムn.2270)。 

「教会は第一世紀から、仕掛けられた一切の妊娠中絶を倫理的悪と宣言してきた。この教えは変わることがない。不変なのである。直接の妊娠中絶、すなわち目的として、あるいは手段として意図された妊娠中絶は、重大な道徳法違反である。

“胎児を堕胎によって殺してはならない。また、新生児を亡き者にしてはならない”(ディダケ2,2ほか)。

“生命の主なる神は、生命の維持という崇高な役務を人間に託したのであって、人間は人間にふさわしい方法でこの役務を果たさなければならない。生命は妊娠した時から細心の注意をもって守護しなければならない。堕胎と幼児殺害は恐るべき犯罪である”(現代世界憲章51第3項)」(カテキズムn.2271)。

「妊娠中絶に事実上協力することは重大な過失である」(カテキズムn.2271)。

「一切の罪なき個人のいのちへの譲渡できない権利は、市民社会と法制の構成要素を成している。

“人格の不可譲の権利は、市民社会と公権によって認められ尊重されなければならない。人間の権利は個人にも、両親にも依存したものではなく、社会や国家から譲渡されたものでもない。人権は人間本性に属するものであり、人間の起源である神の創造の業のゆえに人格に内在するものである。基本的人権の中に、すべての人の受胎から死に至るまでのいのちと身体的保全の権利が数えられなければならない”(生命の始まりに関する教書3,7)」(カテキズムn.2273)。

このあと、カテキズムが出生前診断について述べていることに留意しなければならない。

「出生前診断は、“受精卵や胎児を傷つけることなくその生命を尊重し、個人としてその保護や治療のために行われる”のであれば、倫理的に認められる。“出生前診断が、結果によっては中絶する意図をもって行われるのであれば、それは重大な道徳法違反となる。”診断は死の宣告と同じであってはならないのである“(生命のはじめに関する教書1,2)」(カテキズムn.2274)。