第五戒(4)安楽死と自殺の問題
カテゴリー 折々の想い 公開 [2013/11/01/ 00:00]
安楽死の問題はいまのところ語られることが少ないが、延命治療など終末医療についての問題とも絡むので、一応勉強しておきたい。自殺の問題は年間自殺数の減少は見られるが、有意義な人生を送るためにも重要な問題として、意識を新たにする必要があろう。
まず、安楽死の問題についてカトリック教会の教えを見ておこう。
「健康を害し、あるいは体力が衰えた人々は特別の配慮を必要とする。病人や身体障害者は、可能な限り、正常な生活を送れるよう支えられなければならない」(カテキズムn.2276)。
「動機や手段の如何を問わず、直接の安楽死とは身障者や病人、あるいは臨終にある者の生命を絶つことである。安楽死は倫理的に受け入れられない。
したがって、苦しみを取り除くため死に至らしめる行為や不作為は、その行為自体あるいは意向のゆえに、人格の尊厳ならびにいのちの創造主である生ける神への崇敬に反する重大な殺人である。善意のゆえに誤った判断に落ちることがあったとしても、安楽死が殺人であることに変わりはなく、常に禁止され、排除されなければならない」(カテキズムn.2277)。
「費用のかかる、危険な、特別の、あるいは期待される効果と釣り合いのとれない医療措置の停止は、正当でありうる。これは“特別な延命処置”を断ることを意味する。それは、死を望むのではなく、防げない死を受け入れることである。このような決定はいつでも、もし患者に決定能力があれば患者本人によって、もしなければ、患者の理に叶った意志と正当な利益を教慮しつつ法的権限をもつ者によって、行われなければならない」(カテキズムn.2278)。
「たとえ死が差し迫っていたとしても、病人に対して行わなければならない通常の世話は、正当に中断することは許されない。臨終にある者の苦しみを和らげるための鎮痛剤の使用は、たとえその寿命を縮める恐れがあっても、もしもそのことが目的または手段として死を望むものでなく、ただ避けがたいものとして死が予知され受け入れられていれば、倫理的に人間の尊厳に叶うものとなり得る。痛みを緩和する処置は無私の愛のすぐれた形である。その意味で、それは奨励すべきことである」(カテキズムn.2279)。
自殺の問題について教会は次のように教える。
「人間は各々、そのいのちを与えて下さった神に対して責任がある。いのちの最高支配者は常に神である。わたしたちは、いのちを感謝して受け取り、神の栄光とわたしたちの救霊のためにいのちを守らなければならない。わたしたちは神が与えてくださったいのちの管理者であって、所有者ではない。わたしたちはいのちを自由にはできないのである」(カテキズムn.2280)。
「自殺はそのいのちを守り、生き続けたいという人間本来の傾向と矛盾する。自殺はまさに自己愛への重大な違反である。同時に自殺は隣人愛を侵害する。なぜなら、わたしたちを義務付けている家庭や国や人類とのきずなを不正に破断するからである。自殺は生ける神の愛への造反である」(カテキズムn.2281)。
「自殺が、もしも模範を示す目的、特に若者に模範を示す目的で行われるとするならば、さらに躓きという重罪を加えることになる。意識して自殺に協力することは道徳法への違反である。
重大な精神的な混乱、大きな試練や苦痛あるいは拷問の不安や恐れは、自殺の責任を軽減することができる」(カテキズムn.2282)
「自殺した人々の永遠の救いについて絶望してはならない。神は、ご自分だけがご存じの方法によって、救いに必要な悔い改めの機会を自殺者に与えることがおできになる。教会は自分のいのちに危害を加えた人々のために祈る」(カテキズムn.2283)。
以上であるが、要するに人間は、神に望まれ愛されて、この世に生を受けた。『カトリック教会のカテキズム』はいの一番にそのことを明らかにしている。「ご自身において限りなく完全で幸せな方である神は、慈愛に満ちたご計画にしたがって、だれにも強制されることなくご自由に、ご自分の幸せないのちにあずからせるために、人間を創造された。それ故、いつの時代にも、またどこにおいても、神は人間のそばにおられる。神は、人間が神を求め、神を知り、そして、能力のすべてを尽くして神を愛するよう、人間を招き、助けられる・・・」(n.1).
だから人間は各々、どのような境遇にあっても、神に愛され、神に招かれている。だから一人ひとりの人生は生きるに値する命であって、神に召されるその時まで、信頼と希望をもって生き抜くことができる。