「信仰年」の終わりに

「信仰年」の終わりに

カテゴリー 折々の想い 公開 [2013/11/15/ 00:00]

第二バチカン公会議に学ぶ

第二バチカン公会議に学ぶ

前教皇ベネディクト16世が第2バチカン公会議開幕50周年を記念して布告した「信仰年」は、来る11月24日の王であるキリストの祭日で終結する。これを機に、第2バチカン公会議とは何であったのかをあらためて回顧して見たいと思う。

一言でいえば、第2バチカン公会議は教会とは何かを問い直し、創立以来歩んできた2千年の歴史の経験と反省を踏まえて、自らの根本召命と使命を追及し、自覚した公会議ではなかったかと思う。そしてその結論は、教会とは、唯一の世の救い主キリストに呼び集められ、その使命にあずかるようにと世界に派遣されたキリスト信者の共同体であるということであった。換言すれば、教会とは、キリストの使命にあずかるために呼ばれて派遣された「宣教する共同体」であるということである。

この自覚の前提は、教会は「救いの普遍的秘跡」(教会憲章48)であるとの教えにあり、また、「救いは教会内にあり」という信仰に他ならない。古来、「教会外に救いなし」と信じられてきたが、現世において洗礼以外に教会に結ばれる機会はないとの誤解が生じたため、教皇ピオ12世以来、不可抗的無知により洗礼や教会の必要性を知らなかった人が、良心的な生活を通して神を求める者は、神のみぞ知る方法によって救いに達することができるとの確信が定着し、第2バチカン公会議もこれを認めた。つまり救われる者は最終的にキリストに結ばれ、その体である教会に結ばれるとの信仰が定着したのである。そのため、「救いはキリストにあり」、したがって「救いは教会にあり」と言うことができる。またそこに、「教会外に救いなし」の真意もあることになる。

それ故、第2バチカン公会議は、この召命と使命に答えるために大胆に自己を刷新し、どちらかと言えば、これまで護教的であった教会の姿勢を転換して、開かれた教会に戻ることであった。創始以来、教会は幾多の試練に遭い、さまざまな教敵と戦って自らの信仰を確立してこれを純粋に保たなければならなかったため、勢い、護教的にならざるを得なかったのである。

しかし、幾多の試練に打ち勝って自信を獲得し、また、人類の進展と共に多くのことを学んできた20世紀の教会は、今や、確信をもって教会を世界に開き、大きな心で人類を抱擁し、積極的に福音を宣教する時を迎えたのである。したがって、第2バチカン公会議における方針転換は、信仰の本質の変化ではなく、姿勢の転換であった。

その大転換は、「排他主義から包括主義へ」の転換であるということができる。排他主義とは、カトリック教会以外のすべての宗教や異端を徹底的に排除して、自らの独自性を強調する態度のことであり、包括主義とは、カトリック教以外のすべての宗教や分派を包み込み、キリストの福音をもってこれに奉仕し、これを完成する態度のことである。

 ここにいう包括主義へ転換の一つは、東方正教会や聖公会をはじめ、プロテスタント諸教会への姿勢の転換である。これらのいわゆる「離れた兄弟たち」との間におけるキリストへの同一の信仰に生きている仲間としてこれを認めると同時に、より完全な真理における一致を目指して対話を始めようとする方針を固めた。そのためには、離れた兄弟たちとの間にある共通点と相違点をしっかり捉えて対処することが肝心である。単なる妥協や違いをあいまいにすることは許されない。こうして、信仰の一致を目指すエクメイニズムは大きな進展を見せており、いっそうの祈りと対話が求められている。

 包括主義への転換の第二は、伝統的な諸宗教へのあり方の転換である。従来、ともすれば相手を全面的に否定して改宗を迫る姿勢、すなわち「異教征伐」の姿勢であったのを改めて、諸宗教に対する尊敬の念と共に、そこにある真理を識別して認めると同時に、対話を通して共同で真理の追究する姿勢である。この諸宗教との対話の運動も第2バチカン公会議を機に大きな進展を見せている。

その中で、ここに一冊の本を紹介したい。『神の発見――五木寛之と森一弘の対談』(学研M文庫)である。五木寛之さんは、周知のとおり、真宗の仏教徒として言論界に活躍している学者でわが国の仏教界の代表と言ってもよい人物であり、森一弘名誉司教は押しも押されもせぬカトリック言論界の第一人者である。この二人の宗教対談は、諸宗教対話の一つのモデルであって、この対談が完ぺきだなどと言うつもりはない。対話者によって違うであろう多様な対話の一つであり、一つの実験でしかない。しかし、参考になる。

包括主義への転換の第三は、もちろん現代世界との対話の姿勢の転換である。教会は主キリストから地の果てに至るまでの福音宣教が命じられている。それ故、あらゆる場所と時において、宗教的かつ霊的なレベルでの世界との対話は可能であり、また必要である。そのために、教皇をはじめとする聖職者による福音的発信と共に、何よりも信徒たちによる社会の福音化への活躍が期待されている。信徒による福音宣教の重要性について、第2バチカン公会議は次のように述べる。信徒にようこの福音宣布は、「それが世間の普通の生活の中で行われること自体から、ある独特の性格と特別な力を獲得する」(教会憲章35)。信徒たちの不断の生活の中で、あらゆる問題において人々のかかわり、奉仕していく中で世の福音化は進められるのである。

公会議から半世紀、開かれた教会への転換は十分にその成果を上げたとは言えない。教会は常に厳しい試練の中でその使命を果たさなければならない。だから、信仰年が終わっても、教会の信仰刷新と福音宣教への取り組みは世の終わりまで続くのである。