第五戒(5)人間性の尊重

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第五戒(5)人間性の尊重

カテゴリー 折々の想い 公開 [2013/12/01/ 00:00]

長崎市・カトリック中町教会のステンドグラス

主の復活

 人格の尊厳を尊重することは神の第五戒に含まれる重要な教えである。人命の尊重は人間性の尊重を含むのである。この項目では、まず、隣人の魂の尊重に関わる問題として、躓き(つまずきscandale)が取り上げられる。

「躓きは、他者を悪に誘う態度または行為である。躓きになる人は隣人の誘惑者となる。誘惑者は徳性や正しさを傷つけ、兄弟を霊的な死に陥れる可能性がある。躓きは、もしその行為や不作為が故意に他者を大罪に陥れるならば、大罪となる」(カテキズムn. 2284)。

 「躓きの原因となるものが権威者である場合や躓きを受ける者が弱者である場合には,躓きは特別の重大性を帯びる。このことは次の主の呪いの言葉に発想を得ている。『この小さな者の一人をつまずかせる者は、首に石臼を掛けられて海に沈められるほうがましである』(マタイ18,6)。本性上あるいは職務上、他者を教え導く立場にある者の場合、つまずきは重大である。イエスは律法学者やファリザイ人らを非難して、羊の皮を被ったオオカミにたとえている(マタイ7,15参照)」(カテキズムn. 285)。

 「躓きは、法律や制度によって、流行や世論によって、引き起こされることがある。

たとえば、風紀を乱し、宗教生活を堕落させ、あるいは、『意識的であるなしにかかわらず、掟に叶ったキリスト教的生活を困難にし、事実上不可能にする』(ピオ12世)社会的な状況を助長する法律や社会構造を作る者は、躓きの犯人である。不正行為をそそのかす規則を押しつける企業家、子どもを『苛立たせる』教師(エフェゾ6,4参照)、あるいは世論を操作し道徳的価値を誤らせる者も、同様である」(カテキズムn.2286)。

 「権力を用いて悪行に誘う状況を作りだす者は躓きの犯人となり、直接あるいは間接に悪を助長した責任を問われる。『つまずきが生じるのを避けることはできない。しかし、それをもたらす人は不幸である』(ルカ17,1)」(カテキズムn.2287)。

 以上の通り、躓きは他者の人間性を傷つけ、人を堕落させる原因として厳しく糾弾されているにもかかわらず、現実の社会は躓きに満ちている。特に人工妊娠中絶を場合によって公認する優生保護法や、人のいのちを勝手に操作する生命科学を称賛する風潮などは、いのちの尊厳を侵し、いのちを軽視する風潮を助長する躓きのもととなっており、人々は法律が許せば神も許して下さると誤解して嬰児殺しに走る。おカネおカネと叫ぶ経済至上主義の風潮も多くの人の目をくらまし、この世の欲望の充足に走らせるのではないか。消費を煽るCM、スキャンダラスな情報、そして悪友など、人格を傷つけ悪に誘う躓きの危険が世間に満ちている。

 さて、次に、人間性の尊重を命じる神の第五戒は、生命と身体的健康を大切にするよう命じているとしてカトリック教会のカテキズムは次のように述べる。

「生命と身体的健康は神から託された貴重な善である。わたしたちは、他者の必要や共通善を考慮しながら、分別をもって己のいのちと健康に配慮しなければならない。

国民の≺健康管理≻は、成長して成熟に達することを可能にする生活の諸条件、すなわち衣食住、健康管理、基礎教育、雇用、社会保障を満たすために、社会の援助を必要とする」(カテキズムn.2288)。

「道徳が身体的健康の尊重を要求するとしても、それは身体的健康を絶対的な価値とするものではない。道徳は、肉体崇拝(le culte du corps)を推進し、そのために全てを犠牲にし、完璧な身体やスポーツの勝者を偶像化しようとする新宗教(neo-paienne)の理念に反対する。このような異教的理念は、強者と弱者を差別する選択によって、人間関係を乱す恐れがある」(カテキズムn.2289)。

「節制の徳は、食事、アルコール、たばこ、そして薬の乱用など、≺あらゆる行き過ぎを避けるよう≻促す。飲酒運転や無制限のスピード趣味によって路上、海上、あるいは空中において他者や自分の安全を危険にさらす者は、重大な犯罪人となる」(カテキズムn.2290)。

 「≺麻薬の使用≻は健康と人命にきわめて重大な破壊をもたらす。厳密な治療的使用以外、それは重大な過失である。麻薬の密造や密売は人をつまずかせる行為である。そのような行為は、道徳法に反する重大な行為をそそのかすことであるが故に、犯罪への直接協力となる」(カテキズムn.2291)。

 カテキズムはさらに、死者の身体、つまり遺体に対する尊敬について述べる。

 「死者の身体は、復活の信仰と希望における尊敬と愛をもって取り扱わなければならない。死者の埋葬は身体的憐れみの行為である。それは聖霊の神殿である神の子らを称えることである」(n.2300)。