第五戒(6)平和を守ること

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第五戒(6)平和を守ること

カテゴリー 折々の想い 公開 [2013/12/22/ 00:00]

主イエスの降誕

主イエスの降誕

 クリスマスは、「平和の君」(イザヤ9,5)である神の子キリストの誕生の祝いであるから、平和の祭典であると言いてよいこの時期に、神の第五戒に関連して平和について語ることは実にふさわしい。では、平和とは何か。『カトリック教会のカテキズム』は語る。

「人間の命と成長を尊重するためには平和が必要である。平和は単なる戦争の不在でもなければ、敵対する勢力の均衡を保持することでもない。地上の平和は、個人の財産の擁護、人々の間の自由な交流、個人や社会の尊厳の尊重、兄弟愛の勤勉な実践なしには、獲得することができない。平和は“秩序の静けさ”(聖アウグスチノ)である。平和は正義の業(イザヤ32,17参照)であり、愛の実り(現代世界憲章78)である」(n.2304)。

 周知の通り、人間はさまざまな地域や環境、社会構造や風俗習慣の中で、生きかつ働いて人それぞれに成長していく。現代社会における社会の変動は大きく、また複雑であって、人間の命や成長を妨げる多様な困難や障害が一人ひとりの人生の前に立ちはだかる。したがって、人間が幸せに生きて成長するためには強固で持続的な平和を必要とする。

 しかし、世界の現状見るに、そのような平和はいまだ確立されたためしがない。実に多くの人々が貧困や人災の中で人格の尊厳を侵され、正常な生活が脅かされている。平和を乱す要因は戦争だけではない。第二次世界大戦のあと、国と国とが宣戦布告をして戦う古典的な戦争はないが、宣戦布告のない国家間の冷戦や国際テロ、さらに内戦や民族抗争のほか、日常的な分裂や争い、虐待や殺人が多くの人の幸福を損っている。だから第2バチカン公会議は断言した。

 「平和は単なる戦争の不在でもなければ、敵対する力の均衡を保持することだけでもなく、独裁的な支配から生じるものではない。平和を正義のわざと定義することは正しい。人間社会の創立者である神によって、その社会に刻み込まれ、常により完全な正義を求めて人間が実現していかなければならない秩序の実りが平和なのである。…(正義が要求する)人類の共通善の要求は、時の経過とともに絶えず変動するものであるから、平和は永久に獲得されたものではなく、絶えず建設してゆくべきものである。

 それだけでは充分ではない。個人の福祉の安全が確保され、人々が精神と才能の富を信頼をもって互いに自由に交流し合うのでなければ、地上に平和をもたらすことはできない。他人および他国民と彼らの品位とを尊重する確固たる意志、また兄弟愛の努力と実践は、平和の建設のために必要欠くべからざることである。こうして平和は愛の実りでもある。愛は正義がもたらすものを超える」(現代世界憲章78)。

 次に、カテキズムは真の平和はキリストの平和であることを明らかにして言う。

 「地上の平和は、メシア(救い主)である『平和の君』(イザヤ9,5)“キリストの平和”の姿であり実りである。キリストは、十字架の血により、『ご自身において敵意を根絶し』(エフェゾ2,16)、人々と神とを和解させ、ご自分の教会を人類の一致と神との一致の秘跡とされた。『キリストはわたしたちの平和』(エフェゾ2,4)である。キリストは『平和をもたらす人は幸いである』(マタイ5,9)と宣言された」(n.2305)。

 これは、真の平和が心の平和であることを示すものである。人間がキリストの平和の恵みにあずかって神や隣人と和解し、心の平和を取り戻すことなしに、愛徳に駆られて正義を実現し、地上に平和を建設することはできないのである。『カトリック教会のカテキズム』は心の平和と対立する二つの罪を排除するよう勧告する。殺人的な怒りと憎しみの不道徳行為である。

 「怒りは復讐の願望である。…もしも怒りが故意に人を殺し、あるいは重傷を負わせる願望にまでに至れば、それは重大な愛徳違反であり、大罪である。主は言われた。『兄弟に対して怒る者はみな裁きを受ける』(マタイ5,22)」(n.2303)。

 「意図的な憎しみは愛徳違反である。隣人への憎しみは、人が隣人の不幸を故意に望む場合、罪となる。隣人への憎しみが、隣人の重大な損害を故意に望むならば、それは大罪である。『わたしはあなた方に言っておく。あなた方の敵を愛し、あなた方を迫害する者のために祈りなさい。それは、天におられる父の子となるためである』(マタイ5,44-45)」(n.2303)。

クリスマスを期して、わたしたちの心から一切の怒りや憎しみの心を取り除いてキリストの平和にあずかり、平和を作る人になれるよう、祈りつつ励みたい。