第五戒(7)戦争を避けること
カテゴリー 折々の想い 公開 [2014/01/01/ 00:00]
毎年1月1日はカトリック教会が実施する世界平和の日である。この日にちなんで、神の第五戒が命じる「戦争の回避」について語るのは時宜にかなっていると思う。そこで、『カトリック教会のカテキズム』nn.2307-2317の言うところを要約してみよう。
「第五戒は人の命を意図的に抹殺することを禁じる。あらゆる戦争がもたらす害悪や不正のゆえに、教会はわたしたち各々に、神がその慈しみによって、古くからの戦争の奴隷から解放してくださるよう祈りかつ努力することを切に促している」(n.2307)。
「市民も政府もそれぞれ、戦争を避けるよう働く義務がある」と強調したうえで、カテキズムは正当防衛について第2バチカン公会議『現代世界憲章』79を引用して述べる。「戦争の危険が存在し、しかも、十分な力と権限を持つ国際的な権威が存在しない間は、平和的解決のあらゆる手段を尽くした上でならば、政府の正当防衛の権利を否定できないであろう」(n.2308)。
しかし、武力による正当防衛のために次の四つの条件を提示している。
① 持続的で重大な脅威が確実に迫っていること。
② いかなる平和的解決手段も有効でないこと。
③ 成功する可能性に根拠があること。
④ ④現代の破壊的兵器の威力を考慮して、より大きな災厄をもたらさないこと。
この四つの条件の適用についてその倫理的正当性を判断するのは、公共善に責任を持つ為政者である。この場合、公権は祖国防衛に必要な義務を国民に課す権限を持つ。軍務に服する者は国民の安全と自由の奉仕者である。良心上兵器の使用を拒否する者には、別な方法で共同体に奉仕するよう配慮する必要があろう。
戦争中といえども、道徳法は常に有効である。また、非戦闘員や傷病兵、捕虜を尊敬し、人道的にこれを扱う必要がある。国際法やその普遍的原理に反する意図的行為も、これを命じることも、犯罪である。盲目的な服従も免除されない。一つの民族、一つの国民あるいは少数民族を根絶することは断罪されなければならない。民族浄化の命令を拒否することは道義的な義務である。
都市全体または広い地域をその住民と共に無差別に破壊することに向けられた戦争行為はすべて、神と人間自身に対する犯罪であり、ためらうことなく固く禁止すべきである。科学兵器、中でも核兵器や生物ないし化学兵器の保有国にはその危険がある。
武器の蓄積は多くの場合、仮想敵国からの攻撃を抑止する逆説的な手段と見られている。それは国際的な平和を保証する最も有効な手段と見られている。しかし、この抑止方法には倫理的に重大な留保が求められる。軍拡競争は平和を保障しない。戦争の原因を除去するどころか、増大する危険がある。絶えず新たにされる軍備における信じられないほどの富の浪費は貧困層の救済を妨害する。それは諸民族の発展を阻害する。過剰軍備は紛争の理由を増やし、伝染の危険を増大する。
武器の製造や取引は国々や国際共同体の共通善に抵触する。したがって公権にはこれを規制する権利と義務がある。個人や集団の短期的な利益の追求は、国家間の暴力や紛争をけしかけ、国際的な法秩序を危険にさらす企てを正当化することはできない。
経済的あるいは社会的な分野における不正義や過度の不平等、人々の間や国々間に広がる羨望、不信、思い上がりは、平和を脅かし、戦争の原因となっている。これらの無秩序を克服するために行われるすべてのことが、平和を建設し、戦争を回避するために貢献する。
このように述べたあと、『カトリック教会のカテキズム』は付け加えている。
「人間が罪人である限り、戦争の危険は人間を脅かし、またそれはキリストの再臨の時まで変わらないであろう。しかし、人々が愛によって一つに結ばれる限り、人間は罪に打ち克ち、暴力を乗り越えるであろう。こうして次の言葉が実現する。『彼らはその剣を鋤に、槍を鎌にうち直す。国は国に向かって剣を振りかざすことなく、もはや戦うことを学ばない』(イザヤ2,4)」
過ぎた2013年を振り返って見ても、戦争は多様な形をとり。世界各地で頻発した。わが国でも、政府は安全保障に危険が迫ったと強調して軍備を固め、国防を堅固にしようと躍起になっている。平和への望みとそのために働くことの重要性はますます高まっているようにも思える。