第六戒(1)神は人を男と女に造られた

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > 第六戒(1)神は人を男と女に造られた

第六戒(1)神は人を男と女に造られた

カテゴリー 折々の想い 公開 [2014/01/15/ 00:00]

カトリック教会の結婚式

カトリック教会の結婚式

カテキズムで示される神の第六戒の文面は、“姦淫してはならない”という簡潔な表現であるが、教会の伝統によれば、第六の掟は人間の性に関する包括的な教えであると理解されてきた。そこでまず、性と性別の意義について、『カトリック教会のカテキズム』nn.2331-2336に従って見てみよう。

「神は愛である。神ご自身、愛の交わりの神秘を生きておられる。ご自分の似姿として人間を男と女に造られた神は、…人間の中に召命を、したがって、愛と交わりに対応する能力と責任とを印刻した。

『神はご自分にかたどって、人を、…男と女とに創造された』(創世記1,27)」;『産めよ、増えよ』(同28);神はアダムを創造されたとき、ご自分に似せて造られた。そして男と女とに創造し祝福し、“人”と名付けられた』(同5,1-2)」(n,2331)。

「性別は、人間の身体と霊魂が一つになっていることから、人格のすべての点に影響を与える。それは特に感情、愛する能力や生殖能力に関わり、そしてより一般的な仕方としては、他者とのきずなを結ぶ適性にかかわっている」(n.2332)。

福者ヨハネ・パウロⅡ世は次のように述べている。「人間は肉体となった霊魂として、すなわち、肉体において現わされた霊魂と、滅びることのない霊魂の息を吹き込まれた肉体とが一つになった全体として愛し合うように呼ばれています。愛には人間の肉体が含まれており、肉体は霊的な愛の担い手として造られているのです」(使徒的勧告『家庭』11)。

「各々の男と女は、自らの性同一性を認め、受け入れなければならない。肉体的、精神的かつ霊的相異と相互補完性とは結婚生活と家庭生活の発展に方向づけられている。夫婦や社会の調和は、一部分、両性間の補完性、必要性そして相互依存性がいかに生きられたかにかかっている」(n.2333)。

次にカテキズムは、相互補完的な男女両性が平等の人格的尊厳を有することを強調して言う。「人間存在を男と女に創造された神は、男女に等しい人格的な尊厳を与えた。『人間は、男性においても女性においても、同等の人格(ペルソナ)である。なぜなら、両性ともに人格(ペルソナ)である神のかたどり、そして似姿として造られたからである(n.2334)。

「男女両性は各々、同等の尊厳とともに、違った仕方ではあっても、神の能力や優しさの似姿である。結婚における男と女の結合は、創造主の寛大さ(generosity)と生み出す力(fecundity) を肉体において模倣することである。『男は父母を離れて、妻に結ばれ、二人は一体となる』(創世記2,24)。この結合から全ての子孫が生じるのである」(n.2335)。

「イエスは被造物を最初の純粋な姿に回復するために来られた。山上の垂訓において、彼は神のご計画を厳密に解釈して言われた。『あなたがたも聞いているとおり、“姦淫してはならない“と命じられている。しかし、わたしはあなた方に言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、心の中ですでに姦淫の罪を犯している』(マタイ5,27-28)。人間は神が合わせたものを離してはならないのである」(n.2336)。

 以上の通りだが、要するに、神が人を男と女とに造られたのは、人間に「愛の根本召命」を与えるためであり、したがって人間は自分が男であるか女であるかをわきまえて、知恵と自由を備えた「人格」にふさわしく、自分を与えるという愛の召命を全面的に実現する道は、地上においては「結婚」しかないということである。「全面的に」というのは、身も心も全てを与え尽くすという意味であり、「地上において」というのは、キリストがこの世に開かれた「天の国」においては、結婚を断念して己の全てを神にささげる「独身」もまた愛の召命を生きるもう一つの優れた道であるからである。

福者ヨハネ・パウロⅡ世は、「キリスト教の啓示は、人間の愛の召命の全体を実現するために二つの道を認めています。それは結婚と独身です」と述べたが、それは以上の意味である。今日、ヨーロッパやわが国などの先進国において「結婚の召命」や「神の国のための独身の召命」がないがしろにされ、その意味が見失われて、性や結婚がさまざまな利己的な欲望のために乱用されている。こうした性や結婚のモラルからの逸脱は、いずれも人格としての人間の尊厳を汚し、人間とその文明社会を堕落と衰退に導くものである。愛の召命としての性別の意味をあらためてかみしめたい。