第六戒(4)結婚と子どもの出産

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > 第六戒(4)結婚と子どもの出産

第六戒(4)結婚と子どもの出産

カテゴリー 折々の想い 公開 [2014/03/01/ 00:00]

孫やひ孫に囲まれて

孫やひ孫に囲まれて

わが国でも少子化が叫ばれて久しい。経済的な理由を中心に、結婚を回避する生涯未婚や晩婚、離婚などと騒がれているが、少子化の原因は結婚や子どもの“私物化”が根本的な理由であろう。もう一度結婚とその実りである子どもにいついて考えてみよう。

「子どもの出産は一つの賜物であり、結婚の目的である。なぜなら、夫婦愛はそれ自体子どもの出産に向けられているからである。子どもは夫婦の相互愛に加えて外部から来るのではない。子どもは夫婦の相互贈与そのものから来るのであって、夫婦愛の実りであり成就である。“命を守る”教会は、”夫婦行為はすべて生命の伝達に開かれていなければならない“と教えている。教会教導権によって繰り返し明らかにされてきたこの教えは、神が望み、そして、人間が一致と出産という夫婦行為の二つの目的を切り離すことはできないという不解消のきずなに基づくものである」(n.2366)。

「いのちを与えるために呼ばれている夫婦は、神の創造する力と父性に参与する。“生命を伝達し、その教育者となる義務(これは夫婦の固有の使命と考えなければならない)において、夫婦は、自分たちが創造主である神の協力者であり、その解釈者であることを知らなければならない。それゆえ、夫婦は人間として、またキリスト者として、全責任をもってこの務めを果たさなければならない”(現代世界憲章23)」(n.2368)。

「この責任の特別の問題は計画出産にかかわる問題である。正当な理由があれば、夫婦は子どもの出産に間隔をあけることができる。夫婦はその望みがエゴイズムから出たものではなく、責任ある父性の正当な配慮によることを確かめなければならない。そのうえ、倫理の客観的な規範に従って自分たちを規制する必要がある」(n.2368)。

このことに関連して、第2バチカン公会議は次のように述べている。

「夫婦愛と生命伝達の責任との調和が問題となるときには、行為の倫理性は意向の純粋性や動機の評価だけに依存するのではない。それは人間とその行為の本性から引き出された客観的基準、真の愛の連関において相互授与と人間繁殖の十全な意味を守る基準によって定められるべきである。このことは夫婦間の貞潔の徳をまじめに実践することなしには実現できない」(現代世界憲章51)。

  「一致と出産という本質的な目的が守られる時、夫婦行為は、相互の真正な愛の意味と、父性に向けられた崇高な召命への秩序が完全に守られることになる」(n.2369)。

 「定期的禁欲、自己観察に基づいた計画出産法、そして不妊期間の利用は、客観的倫理基準に適合している。これらの方法は夫婦の体を尊重し、互いの思いやりを励まし、正しい自由の教育に役立つ。これに反して、夫婦行為の直前に、あるいは夫婦行為の途中で、あるいは夫婦行為のあとの自然の成り行きの中で、子どもの出産を不可能にすることを目的とし、またはその手段とする一切の行為は、内在的悪である」(n.2370)。

 「“他方、人間の生命とそれを伝達する務めは、この世の範囲に限られた現実でもなければ、現世でその十全は広がりや意義を見出せるものでもなく、それらは常に人間の永遠の目的に関連して考慮すべきことを、全ての人が知らなければならない“」(n.2371)。

【子どもは賜物】

 「聖書と教会の伝統によれば、子沢山の家庭は神の祝福のしるしであり、両親の寛大さのしるしである」(n.2373)。

 「子宝に恵まれない夫婦の悩みは大きい。“主よ、わたしに何をくださるのですか”とアブラムは主に尋ねた。“わたしは子どもがないままに過ごしています” (創世記15,2)。“わたしに子どもをください。さもなければ、わたしは死にます” ラケルは夫ヤコブに言った(創世記30,1)」(n.2374)。

 「人間の不妊症を治す目的の研究は、人格への奉仕のため、すなわち、その譲渡不可能な権利のため、その真正にして十全な善のため、神の計画と意志に合致して行われる限り、奨励される」(n.2375)。

教皇庁教理省は『生命の始まりに関する教書』の中で、夫婦の性行為から出産行為までの過程に、第三者による“体外受精”などの一切の介入を悪として、これを否定する。

 「子どもは一つの義務ではなく、賜物である。“結婚におけるもっとも優れた賜物”は一つの人格である。子どもは一個の所有物と考えることはできない。“子供を持つ権利”を主張することは子どもを私有物とすることにつながる。この分野では、子どもだけが真の権利、すなわち、“両親の夫婦愛の特別な行為の実りである権利、同時に、受胎の瞬間から人格として尊重される権利”を持っている」(n.2378)。

 「キリストの福音によれば、物理的不妊は絶対悪ではない。正当な医療を尽くしても子供を恵まれず苦しむ夫婦は、全ての霊的豊かさの泉である主の十字架にあずかるべきである。彼らは、遺棄された子どもを養子にし、あるいは他者への必要な奉仕に献身して、その寛大さを示すことができる」(n.2379)。



トラックバックURL


Warning: Use of undefined constant display - assumed 'display' (this will throw an Error in a future version of PHP) in /home/yazi/mr826.net/public_html/psi/wp-content/themes/70223/single.php on line 45
http://mr826.net/psi/blog/140301/trackback

コメント欄を活用して、対話の機会にすることができればと願っています。 ただし、記事や本サイトの趣旨と関係のないコメントはご遠慮下さい。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください