第七戒(3)教会の社会教説

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第七戒(3)教会の社会教説

カテゴリー 折々の想い 公開 [2014/04/15/ 00:00]

 教皇ヨハネ・パウロ二世回勅~教会と社会の百年をふりかえって~

新しい課題

カトリック教会は第七戒の解説の中で「教会の社会教説」(社会的教え)について教える。19世紀、産業革命によって引き起こされた労働環境に対応するために、教会はいわゆる「社会教説」と呼ばれる一連の教えを構築してきた。

労働を取り巻く問題は今も続いており、ますます複雑になっているので、同じ境遇にある仲間と合同で具体的に学び、研究することは有益であろう。ここでは、いつものように、『カトリック教会のカテキズム』に従って見ていくことにする。

「“キリスト教の啓示は、社会生活の諸法則について、いっそう深い理解にわれわれを導く”(現世界憲章23)。教会は人間の真理に関する完全な啓示を福音から受け取る。教会は、福音宣教の使命を果たすとき、キリストの名において、人間にその固有の尊厳と人間相互の交わりへの招きについて説明する。教会は、神の英知に叶う正義と平和の要求を人間に教えるのである」(カテキズム2419)。

「教会は、“人格の基本的権利や霊魂の救いが要求する時には”、経済的かつ社会的問題について一定の倫理的判断を下す。倫理的な秩序において、教会は、政治的権威の使命とは異なった使命をもっている。すなわち、教会は地上的な共通善がわれわれの究極の目的である最高善に秩序づけられているという側面に配慮する。教会は、地上の財貨とのかかわりにおいて、また、社会・経済関係において、正しいあり方について教え続けるのである」(カテキズム2420)。

「教会の社会的教説が発展したのは19世紀である。その頃、教会は現代工業社会と出会い、消費物資の新しい生産手段、社会や国家とその新しい権威の形態、その新しい労働や所有の形態と直面したのである。経済的かつ社会的問題における教会の教えの発展は、教会の教えの不変の価値と同時に、常に生きかつ働いている聖伝の真の意味を証明している」(カテキズム2421)。

「教会の社会教説は、キリスト・イエスによって啓示された神の言葉の完全性に照らされ、また聖霊の助けを得て、歴史の流れのうちに展開される種々の事象を読み解くに従い、徐々に形成されていく教会の教えの総体である。この教えは、キリスト者の態度によって霊感が吹き込まれるに従って、善意の人々の受け入れやすくなる」(カテキズム2422)。

「教会の社会的教説は、反省のための原理を提供し、判断基準を引き出し、行動の指針を与える」(カテキズム2423)。

「利潤を経済活動の唯一の規範とし最終目的とする理論は倫理的に容認できない。無軌道な金銭欲は堕落した結果を招かずにはおかぬ。それは社会秩序を乱す多くの原因の一つである

“生産の集団組織を個人と団体の基本的権利に優先させる”(現代世界憲章65)体制は人間の尊厳に反する。人間ペルソナを全くの生産手段にしてしまう一切の行為は、人間を奴隷化し、拝金主義に導き、無神論の拡大を助長する。『あなた方は神とマンモンとに兼ね仕えることはできない』(マタイ6,24;ルカ16,13)」(カテキズム2424)。

「教会は、現代において、『共産主義』あるいは『社会主義』と結びついた全体主義的かつ無神論的イデオロギを斥けた。他方、教会は、『資本主義』体制の中で、個人主義と人間労働に対する商品価値至上主義を非難した。中央集権的な計画経済は草の根の社会関係を乱す。市場法則のみによる経済操作も社会正義に欠ける。“なぜなら、市場で満たされない人間的必要が多数あるからである”(回勅『新しい課題』34)。正しい価値体系に基づき、また共通善の観点にたって、市場を調整し、経済を運営するよう努めなければならない」(カテキズム2425)。