第七戒(5)国際的な正義と連帯
カテゴリー 折々の想い 公開 [2014/05/15/ 00:00]
カトリック教会は神の第七戒の中で、国際的な正義と連帯についても教える。この教えは多分にその時その環境に応じて適用するべきものであるが、ここに述べられる国々の間の経済的な状況は、多少の変化はあるものの、今も教えの基本は同じである。
さて、『カトリック教会のカテキズム』の文面は次のとおりである。
「国際的な関係においては、資源や経済手段の格差が国々の間に深い“溝”を生じさせるまでになっている。一方には成長の手段を有して発展している国があり、他方には負債が増大する国々がある」(カテキズムn.2437)。
「宗教的、政治的、経済的、そして財政的な種々の要因によって、今日、“社会問題が全世界的広がりをもたらしている”(回勅『真の開発とは』”Sollicitudo Rei Socialis“9)。国際的な連帯が必要であって、政治はすでに相互依存関係にある。発展途上国の発展の妨げとなる“腐敗した構造”をあらためるためには、国際的連帯はいっそう不可欠となる(同上17;45)。高利貸しと言わないまでも不当な金融制度、国家間の不公平な商取引関係、軍備拡張競争に代えて、“諸価値の優先順位や序列を見直して”(回勅『新しい課題』“Centesimus Annus” 28)倫理的、文化的、そして経済的発展を目標に資源を流通する共同の努力が必要である(カテキズムn.2438)。
「豊かな国々は、自分では発展の手段をもちえなかったか、あるいは歴史上の悲劇的出来事によって妨げられた国々対して、重大な倫理的責任がある。それは連帯と愛の義務である。さらに、豊かな国々の繁栄が公平な代価が支払われなかった資源によるものである場合、それは正義の義務である(カテキズムn.2439)。
「直接援助は、たとえば天災や疫病などによって生じた特別な緊急の必要に対する適切な応答である。しかし、それは貧しさがもたらす重大な損害を保障するためにも、必要に持続的にこたえるためにも十分ではない。同時に、国際的な経済的かつ財政的制度を改革して、発展途上国との公平な関係を改善しなければならない(回勅『真の開発とは』16参照)。貧しい国々が自国の成長と解放のために行っている努力を支えなければならない(回勅『新しい課題』26参照)。この教えは極めて特別な方法で農業の分野に適用されるよう求めている。農民は、第三世界において特に、貧者の大半を構成している(カテキズムn.2440)。
「神の感覚と自己認識の高まりは、人間社会の全面的な発展の基礎である。人間社会の成長は、物質的財貨を増大させ、それを人間とその自由に役立たせる。それは貧困や経済的搾取を減少させる。それは文化的生活の尊重と超越的存在への心の開きを向上させる(回勅『真の開発とは』32;『新しい課題』51参照)」(カテキズムn.2441)。
「政治体制の構築や社会生活の組織づくりに直接介入するのは教会の司牧者の任務には属さない。この任務は信徒信者の召命の分野であって、他の一般市民と協力しながら信徒固有の発意に基づいて行動する。社会活動においては具体的には複数の選択肢があり得るが、それは常に共通善を目指し、福音のメッセージと教会の教えに従っていなければならない。
“この世の現実に熱意をもって活力を吹き込むのは信徒に求められた仕事であり、そのことによって信徒は平和と正義の証人となり担い手となる”(回勅『真の開発とは』47)」(カテキズムn.2442)。
カテキズムの教えは以上の通りだが、今日の国際的経済体制は新自由主義に基づく市場原理主義であり、大量生産大量消費の成長主義経済がグローバル化して世界中に経済格差の増大、環境破壊、無駄遣い社会を助長している。これに対して、“脱成長”をもって世界を変え、“経済成長なき社会発展”を目指す議論と実践が世界的に広がってきた。わが国では経済成長論ばかりで、脱成長論はまだ表に出ているとは言えないが、脱成長路線は第七戒の教えに叶うものとして、またその教えに従って発展させなければならないものとして、注目してほしいと思っている。(イラストの写真は、セルジュ・ラトゥーシュ著・中野佳裕訳『≺脱成長≻は、世界を変えられるか?』作品社刊)