第七戒(6)貧しい人々への愛

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > 第七戒(6)貧しい人々への愛

第七戒(6)貧しい人々への愛

カテゴリー 折々の想い 公開 [2014/06/01/ 00:00]

過日のカトリック新聞から

過日のカトリック新聞から

神の第七戒の中で「貧者への愛」について語られるのを不思議に思われる向きがあるかも知れないが、物質的な貧しさばかりでなく、霊的な貧しさにおいても、人間の基本的な権利の回復がまさに正義の問題であることを理解しなければならない。

「神は貧者を助ける人々を祝福し、貧者から目そむける人々を排斥される。“求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に背を向けてはならない”(マタイ5,42)。“ただで受けたのだから、ただで与えなさい”(マタイ10,8)。イエス・キリストがご自分の選ばれた者と認めるのは貧者のために尽くす人々である(マタイ25,31-36参照)。“福音が貧しい人々に告げられる”(マタイ11,5)時、それはキリストの現存のしるしである」(カテキズムn.2443)。

「“貧しい人々に対する教会の愛は、…教会の不変の伝統の一部となっている”(回勅『新しい課題・Centesimus Annus』57)。これは、真福八端の福音(ルカ6,2022参照)、イエスの貧しさ(マタイ8,20参照)、そして貧しい人々へのイエスの心遣い(マルコ12,41-44参照)に霊感を受けている。貧者への愛は、“困っている人に分け与えることができる”(エフェゾ4,28)ために、働く義務の一つの動機でもある。ここにいう貧しさとは、単に物資的な貧しさばかりでなく、さらに文化的かつ宗教的貧しさなど多くの形態に関連している」(カテキズムn.2444)。

「貧者への愛は、富への過度の愛着あるいは利己的な富の消費とは相容れない」(カテキズムn.2445)。

「聖ヨハネ・クリゾストモはこのことを厳しく指摘する:“自分の財産を貧しい人々と分かち合わないとすれば、それは盗みであり、彼らの命を奪うことである。わたしたちが持っている物は、わたしたちの財産ではなく、貧しい人々の財産なのである”。

“正義の立場から行うべきことをまず行い、正義の立場からすでに与えなければならないものを、愛の贈り物として与えるようなことがあってはならない”(第2バチカン公会議『信徒使徒職に関する教令』8)。

「慈善のわざは愛徳の行為である。それによってわたしたちは身体的かつ霊的窮乏にある隣人を助けるのである(イザヤ58,6-7;ヘブライ13,3参照)。教え,助言し、慰め、力づけることは、赦し、忍耐をもって耐え忍ぶことと同じように、霊的な慈善のわざである。身体的な慈善のわざとは、何よりも飢えている人に食を与え、宿のない人に宿を貸し、裸の人に着せ、病人や囚人を訪ね、死者を葬ることである(マタイ25,31-46参照)。これらの行為の中で、貧しい人々への施しは兄弟愛の主要なあかしの一つである。それは同時に神のみ旨に叶う正義の実践である」(カテキズムn.2447)。

「“貧困、不正な抑圧、肉体あるいは精神の病気、そして最終的には死、というように、人間の惨めさは原罪以来自覚されるようになった。人間の生来的な弱さのはっきりとした証拠であり、人間が救いを必要としていることのしるしである。それが、救い主キリストの慈しみを呼び、そのみじめさをわが身に受け、ご自分をその兄弟たちのうち最も小さな一人と同一視させることになった。それ以来、貧しさにうちひしがれている人々は、特に教会にとって優先的な愛の対象となっている。信者たちが皆そうしたわけではないが、教会設立の当初から、彼らの救済、擁護、解放のための働きは絶えたことがない。教会はいつの時代にも、どんなところでも欠かせない慈善の数えきれない事業を通じてこれを実践してきた”(教皇庁教理省『自由の自覚』68)」(カテキズムn.2448)。

「旧約時代から、あらゆる種類の法的対策(赦免の年、利息つきの貸付や担保保持の禁止、十分の一税の義務、日雇い人への日当の支払い、積み残しや落ち穂の権利)は、申命記の次の勧告に応えるものである。“貧しい者がこの国からいなくなることはないであろう。それ故、わたしはあなたに命じて言う。あなたの国に住む兄弟のうち、乏しく貧しい者に、進んであなたの手を開きなさい”(申命記15,11)。イエスはこの言葉を自分のもとして言われた、“貧しい人々はいつもあなた方とともにいるが、わたしはいつもあなた方とともにいるわけではないのだ”(ヨハネ12,8)。こう言って彼は、旧約の預言の烈しさ、すなわち”正しい者を金で、貧しい者を履き物一足で売っている“(アモス8,6)を時代遅れにせず、かえって、ご自分の兄弟である貧しい人々の中に現存するご自分を認めるようわたしたちを招いているのである(マタイ25,40参照)」(カテキズムn.2449)。