第八戒(1)真理のうちに生きる

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > 第八戒(1)真理のうちに生きる

第八戒(1)真理のうちに生きる

カテゴリー 折々の想い 公開 [2014/06/15/ 00:00]

 カトリック新聞から

真理を生きた聖人たち

かつて長崎あたりでは、職場などで、キリスト教信者は正直で裏表がないから信用できる、などと言われたものだが、現在はどうだろう。価値観の多様化の時代には、どこに真理があり、何が本物かと迷うことが多いのではないか。だから第八戒はますます重要になる。

第八戒の表記は「隣人に関して、偽証してはならない」であるが、『カトリック教会のカテキズム』は次のようにその大意を説明する。

「第八戒は他者とのかかわりにおいて真理を誤り伝えることを禁じる。この道徳律は聖なる民の召命から来るもので、真理であり、また真理を望む神の証人となるためである。言葉や行いをもって真理に逆らうことは道徳的公正に生きることの拒絶である。すなわち、これは神への根源的な不忠実であり、したがって、契約の土台の破壊である」(カテキズムn.2464)。

そこで、『カトリック教会のカテキズム』はまず、人が「真理のうちに生きる」ことの重要性を強調して教える。

「旧約聖書は、神は一切の真理の源であると 証言している。神の言葉は真理である(箴言8,7;サムエル下7,28参照)。神の法は真理である(詩編119,142参照)。“あなたの誠は代々に続く(詩編119,90)”(ルカ1,50参照)。神は“真実な方”(ローマ3,4)であるから、その民に属する者は真理のうちに生きるよう召されている(詩編119,30参照)」(カテキズムn.2465)。

「イエス・キリストにおいて、神の真理はことごとく明らかにされた。彼は“恵みと真理に満ち”(ヨハネ1,14)、“世の光”(ヨハネ8,12)であり、“真理”(ヨハネ14,6参照)であった。“だれであれ、キリストを信じる者は、闇の中に留まることがない”(ヨハネ12,46)。“イエスの言葉に留まる”弟子は、“彼を自由にし(ヨハネ8,32)、聖化する(ヨハネ17,17参照)真理”を知るに至る。イエスに従うことは、”真理の霊”を生きることであって、御父はその名によって真理の霊を送り、真理の霊は”一切の真理“(ヨハネ16,13)に導くのである。イエスは弟子たちに真理に対する無条件の愛を教えて言われた。“『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい”(マタイ5,37)」カテキズムn.2466)。

「人間は本性的に真理に向かう存在である。人間は真理を敬い、真理を証明する義務がある。”すべての人間は、人格(ペルソナ)としての尊厳のゆえに、真理、とくに、宗教的真理を探究するよう本性的に促され、また道徳的に義務を負わされている。そして、真理を認めた場合、これに留まり、真理の要求に従って自分の全生活を規制する義務がある“(『信教の自由に関する教令』2)」(カテキズムn.2467)。

「真理は、行動や言葉の正しさとして、真実、誠実、あるいは率直の名で呼ばれる。真理あるいは真実は、行動においては誠実を表し、語るときには真実を表現し、二枚舌、偽装、そして偽善から身を守る」(カテキズムn.2468)。

「“人間は、相互の信頼がなければ、すなわち互いに真実を表現するのでなければ、共に生きることができない”(聖トマス・アクイナス『神学大全』2-2)。真実の徳は他人に返すべきものは正しく他人に返す。誠実とは、明かすべきことと秘密を守るべきこととの間の正しい中庸を守ることである。それは、正直と分別を伴う。正義において、“人は他人に対して正直に真実を表さなければならない”(同上)」(カテキズムn.2469)。

「キリストの弟子は“真理のうちに生きる”ことを受け入れる。すなわち、主の模範に叶う正直な生活を選び、その真理に留まる。“もしわたしたちが、神と交わりをもっていると言いながら、闇の中を歩むなら、わたしたちは嘘をついているのであり、真理を行っていません”(1ヨハネ1,6)」   (カテキズムn.2470).