第八戒(2)真理について証しする
カテゴリー 折々の想い 公開 [2014/07/01/ 00:00]
主キリストは、使徒たちとその教会に、福音の真理を証しするように命じて言われた。「全世界に行き、造られたすべてのものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16,15)。だからキリスト者は、“時なるも、時ならざるも”(2テモテ4,2)宣教に励む。だから、教会は第八戒の中で教える。
「キリストはピラトの前で、“わたしは、真理について証しするために、世に来た”(ヨハネ18,37)と宣言する。キリスト者は“主を証することを恥としない”(2テモテ1,8)。信仰を証明する時が来れば、キリスト者は、裁判官たちの前の聖パウロの模範に倣い、明確に信仰を告白しなければならない。キリスト者は、“神に対しても、人に対しても、責められることのない良心”(使徒言行録24,16)を保たねばならない」(カテキズムn.2471)。
「教会生活に参加すべきキリスト者の務めは、福音の証人として、またそこから生じる種々の義務を果たすようキリスト者を駆り立てる。この証しとは、言葉と行いをもって信仰を伝達することである。証しは、真理を掲げ、あるいは知らしめる正義のわざである(マタイ18,16参照)。
“すべてのキリスト信者は、自分が生活しているその場所で、生活の模範と言葉による証しによって、洗礼によって身に付けた新しい人間と、堅信によって強められた聖霊の力を明らかにしなければならない”(『教会の宣教活動に関する教令』11)」 (カテキズムn.2472)。
「殉教は信仰の真理についての最高の証しである。それは死に至るまでの証しである。殉教者は死んで復活されたキリストの証しであって、彼は、殉教において、愛をもってキリストに結ばれているのである。殉教者は信仰とキリスト教的教えとの真理を証しする。彼は勇気ある行為をもって死を甘受する。 (カテキズムn.2473)。
「教会は、信仰を証しするために命をささげた人々の記録を、最大の心遣いをもって集めてきた。これが殉教録である。血の文字で書かれた真理の記録である」 (カテキズムn.2474)。
殉教は真理の証しであるというカテキズムの指摘は重要である。通常、殉教は信仰と愛の証しであると言われるが、ややもすれば、それは自分の信念を貫いただけだと受け止められる恐れがある。そうではなく、キリスト教信仰こそ真理であり、死を恐れてこの真理から逸脱することをよしとしない堅固な信仰のあかしが殉教なのである。
これに対し、世の中には保身のために真実を偽り、うそをつく機会が決して少なくない。さらには、金もうけのために嘘をつくのは当たり前といった風潮もある。そこで、『カトリック教会のカテキズム要約』の問答523を次に紹介しておきたい。
第八のおきては何を禁じますか。
第八のおきては次のことを禁じます。偽証、偽りの宣誓、嘘。嘘がどのような重さの罪になるかについては、それがゆがめる真理、その時の状況、嘘をつく者の意向、嘘の犠牲となる人が被る損害の大きさによって量られます。
軽率な判断、悪口、名誉棄損、中傷。これらは人が権利として持つ、よい評判と名誉を落としたり、台無しにしたりします。
おせじ、へつらい、愛想。特にこれらが重大な罪や、不当な利益を上げることを意図したものである場合です。
真理に反して犯された罪が他者に損害を与えた場合には、賠償の責任があります。