第八戒(5)真理、美、そして宗教芸術
カテゴリー 折々の想い 公開 [2014/08/16/ 00:00]
人生に善行の喜びや道徳美の輝きをもたらす真理は、言葉による表現のほかに、言葉によらない表現もあることを『カトリック教会のカテキズム』は指摘する。神の作品である被造世界は造り主である神を表現し、美術、とくに宗教芸術は神の秘義の表現である。
「善を行うことは精神的な無償の喜びや道徳的な美を伴う。同様に、真理は喜びや霊的な美の輝きもたらす。真理はそれ自体が美しいのである。造られた、あるいは造られざる実在認識の知的表現としての言葉の真理は、知性を備えた人間に必要であるが、真理にはほかの人間的かつ補足的な表現方法も可能であって、特に、言葉に表せない事柄、人の心の深み、魂の高揚、神の秘義を表現する場合がそうである。神は、真理の言葉によってご自分を人間に啓示するより以前にも、み言葉のわざであり知恵(sagesse)のわざである造られた世界という万人共通の言語を通してご自分を人間に啓示される。すなわち、子どもにも科学者にも分かる、宇宙の秩序や調和、“被造物の偉大さと美から推し量ることで、その造り主を認めることができる”(知恵の書13,5)、“それらを造ったのは美の創始者であったのだから”(同上13,3)。
”知恵は神の力の息吹、全能者の栄光から発する清い流出である。それ故、汚れた者は何一つその中に入らない。知恵は永遠の光の反映であり、神の働きを映す曇りない鏡であり、神の善のかたどりである“(知恵の書7,25-26)。”知恵は太陽より美しく、あらゆる星座に勝り、光と比べてみても優れている。闇は光と入れ替わる。しかし、悪が知恵に打ち勝つことはない“(同上7,29-30)。“わたしはその美しさに心奪われる者となった”(同上8,2)」(カテキズムn.2500)。
「“神の似姿に造られた”(創世記1,26)人間は、また、創造主なる神との関係についての真理を、芸術作品の美を通して表現する。事実、芸術は一つの人間固有の表現形式であって、すべての生ける被造物に共通の生きるために必要な努力を超える、人間存在の内的豊かさの自然な充溢である。芸術は、神から与えられた才能と人間自身の努力から生ずる実践的な知恵の形式であって、目と耳で捕えられる実在の真理に形を与えるために知識と技術を結集するのである。このように、芸術は、存在するものの真理と愛に霊感を受ける限りにおいて、被造物における創造主の働きに、ある意味で似ている。芸術は、他の人間活動と同じく、それ自体に絶対的な目的はなく、人間の究極の目的に方向づけられて高貴なものとなるのである」(カテキズムn.2501)。
「教会芸術(L’art sacre)は、その表現形式が固有の召命に合致するときに、真実で美しいものとなる。固有の召命とは、信仰と礼拝において、神の超越的神秘を思い出させ、賛美することである。神は真理と愛の目に見えない卓絶した美であって、”神の栄光の輝き、神の本性の完全な具現“(ヘブライ1,3)であるキリストのうちに現れ、キリストのうちに
“神のうちに満ちているすべてが形をとって宿っており“(コロサイ2,9)、いとも聖なる神の母、おとめマリア、天使たち、そして聖人たちのうちに反映している霊的な美である。真の教会芸術は、人間を礼拝に、祈りに、そして創造主にして救い主、聖にして聖化する方である神の愛に導く」(n.2502)。
「したがって、司教は自ら、あるいは代理者を通して、あらゆる様式の新旧宗教芸術を促進させるよう、また同じ宗教的配慮をもって、信仰の真理や宗教芸術の真正な美とは相容れないあらゆるものを典礼や礼拝堂から遠ざけるよう目を配らなければならない(典礼憲章22-127参照)」(n.2503)。
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教会芸術は主に建築、絵画、そして彫刻に見られるが、第2バチカン公会議は典礼憲章第7章において教会芸術の重要性を強調すると同時に、司教たちに教会芸術を保護し推進する任務と責任を明らかにした。