第九戒(1)欲を制し、心を清める
カテゴリー 折々の想い 公開 [2014/09/01/ 00:00]
神の十戒の第9は「隣人の妻を欲してはならない」と表記されるが、さまざまな欲望を抑えて心を清く保つことを命じている。『カトリック教会のカテキズム』は聖書の引用から説明を始め、欲を制して清く生きるよう勧告する。
“お前の隣人の家を欲しがってはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものは何一つ欲しがってはならない“(出エジプト20,17)。
“情欲を抱いて女を見る者は誰でも、心の中ですでに姦淫の罪を犯したことになる(マタイ5,28)。
人間の欲望
「聖ヨハネは欲望あるいは情欲を三つに分類している。すなわち、肉の欲、目の欲、驕り高ぶった生活である(1ヨハネ2,16)。伝統的なカトリック要理によれば、第9戒は肉欲を禁じ、第十戒は隣人の財産への欲望を禁じる」(カテキズムn.2514.)
「語源的には、”情欲”とは一切の人間的な烈しい願望を意味するが、カトリック神学においては、これに特別な意味を加えて、人間理性の働きに反する感覚的な欲求の動きと理解する。使徒聖パウロは、“霊”に逆らう“肉”の反乱と理解する(ガラテア5,16参照)。情欲は最初の罪の不従順に由来する(創世記3,11)。それは、人間の倫理的な機能を狂わせ、欲望自体は罪ではないが、罪に陥る傾向を人間にもたらす(カテキズムn.2515)。
「人間は、霊魂と肉体とから成る複合体であるから、そのうちにはすでに一定の緊張があり、”霊”と”肉”との間に性向の違いについての一定の戦いがある。しかし、この戦いは、事実上、罪の遺産に属するものであって、罪の結果であると同時にそれを確認するものでもある。それは日々体験する霊的戦いの一部を成す(カテキズムn.2516)。
ここでカテキズムは聖ヨハネ・パウロ2世の言葉を次のように引用する。
「パウロは、霊的な魂と一緒に人間本性と主体的なペルソナとしての特徴を形成している肉体を差別しているのでも断罪しているのでもないということです。むしろその逆に、パウロは、倫理的に善かあるいは悪い業について、あるいはむしろ恒久的な習性――善徳と悪徳――について論じているのです。これらのわざは、聖霊の救いをもたらす行いに関する限り、従順の実(前者の場合)か、あるいは反抗の実(後者の場合)なのです。それ故、パウロは書いています。“わたしたちは霊の導きによって生きているとするなら、また、霊の導きに従って前進しましょう”(ガラテア5,25)」(聖ヨハネ・パウロ2世回勅『聖霊・生命の与え主』55)。
心の清め
「心は倫理的な人格の座である。“悪い考えや、殺人、姦淫、不品行は、心から出てくる”(マタイ15,19)。肉欲との戦いは心の浄化と節制の実践を通して行われる。
“単純さと純粋さを保ちなさい。そうすれば、人間のいのちを損なう悪を知らない幼子のようになるでしょう”(ヘルメス)」(カテキズムn.2517)。
「真福八端の第6は宣言する。“心の清い人は幸いである。その人たちは神を見る”(マタイ5,8)。”清い心の人たち“とは、その知恵と意志を神の聖性の要求に従わせる人々であって、それは、とくに三つの分野、すなわち愛徳(1テモテ4,3-9参照)、貞潔又は性的な方正(1テサロニケ4,7参照)、真理への愛と信仰の正統性(テトス1,15参照)である。
信者は信条の各条項を信じなければなりません。”信じて神に従い、従うことによって善を行い、善を行って心を清め、そして、心を清めて信仰を理解するためです”(聖アウグスチノ)」(カテキズムn.2518。)。
「”心の清い人々“には、顔と顔とを合わせて神を見、そして神に似た者となることが約束されている(1コリント13,12;1ヨハネ3,2参照)。心の清さは至福直観の前提である。心の清さは、すでにこの世において、神に基づいてものを見、他者を隣人として受け入れることを可能にする。それは、人間の肉体を、自分の体も隣人の体も、聖霊の神殿、神的美の表現として理解させてくれる」(カテキズムn.2520)。