第九戒(2)心の浄化のための戦い
カテゴリー 折々の想い 公開 [2014/09/15/ 00:00]
原罪の傷跡を生きている人間は悪に傾く弱さをもつのみならず、内外の誘惑にさらされてもいる。加えて、世間には人の心を迷わせ、罪に陥れる誘惑が満ち溢れているから、純粋に正しく生きるためには心の戦いに勝つべく努めなければならない。
「洗礼の秘跡は、受洗者に、一切の罪からの浄化の恵みを与える。しかし、受洗者は肉欲や無軌道な欲望に対する戦いを続けなければならない。神の助けによって受洗者はその戦いに勝利する。
すなわち、
――貞潔の徳と賜物によって。貞潔は、正しくかつ分かたれない心をもって愛することを可能にするから。
――人間の真正な目的を目指す意向の浄化によって。受洗者は、単純な目で、すべての事柄において神のみ旨を見いだし、そして完成するから(ローマ12,2;コリント1,10参照)。
――内面及び外面のまなざしの浄化によって;感情や想像の規制によって;神の掟の道を踏み外させる不純な思いの一切の楽しみを拒絶することによって。“愚かな者はそれを見て欲望をそそられる”(知恵の書15,5)。
――祈りによって。 (『カトリック教会のカテキズム』n.2520)
ここで、聖アウグスチノの言葉が引用される。
「わたしは、自力で禁欲ができるものと考えていました。それは自分を知らなかったからでした。あなたが恵みをお与えにならなければ誰も禁欲を守ることはできない、ということを知らないほど愚かでした。もしもわたしが心底からのうめき声をあげてあなたの御耳に訴え、わたしをお守りくださるようにと固い信仰をもってあなたにお願いしていたなら、あなたはきっと禁欲のお恵みをお与えになっていたことでしょう」(告白録6,11,20)。
「清くあるためには慎み(pudeur)が必要である。これは節制の構成要素の一つである。羞恥心は人格の内奥を守るものであり、隠しておくべきものの公開を拒むことを意味する。それは貞潔の前提で、慎みの証しである。それは人格の品位と調和に合致した眼差しや振る舞いの守りである」(カテキズムn.2521)。
「慎みは人格の秘密とその愛を保護する。それは愛の交わりにおいて忍耐と節制を促す。それは男女相互の決定的な贈与と一致の条件を満たすよう要求する。慎みは地味である。それは衣服の選択に示唆を与える。不健全な好奇心の危険に際しては黙するか控え目である。それは人を思慮分別あるものとする」(カテキズムn.2511)。
「キリスト教的清さは社会風土の浄化を必要とする。それは社会的コミュニケーション・メディアに敬意や慎みに配慮した情報を要求する。心の純潔は拡散するエロチシズムから身を守り、みだらな行為や空想を助長する見世物を遠ざける」(カテキズムn.2525)。
「いわゆる道徳的寛容主義( permissivite des moeurs)は人間の自由についての誤った考えに基づいている。人間の自由を育てるための前提条件は、道徳律の教育である。教育の責任者に求められるのは、青少年の教育において、真理、心の美しさ、そして、人間の道徳的、霊的品位を大切にするよう教えることである」(カテキズムn.2526)。
『カトリック教会のカテキズム』はここで第2バチカン公会議の言葉を次のように引用する。
“キリストのよきメッセージは罪に倒れた人間の生活と文化を絶えず刷新し、罪の絶え間なき誘惑から生ずる誤りと悪を責め退ける。また民族の道徳を絶えず清め高め、精神的長所と各民族または各時代の美点を、天上の富をもって、あたかも内側からはぐくみ、強め、完成させ、キリストにおいて癒す”(『現代世界憲章』58)。