第十戒(1)欲望の乱れ

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第十戒(1)欲望の乱れ

カテゴリー 折々の想い 公開 [2014/10/01/ 00:00]

神の十戒の第十は、カトリック要理では「隣人の財産を欲してはならない」と表記されるが、それは聖書の次の言葉を要約したものである。“隣人のものは何一つ欲しがってはならない“(出エジプト20,17)。”隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろば、また隣人の持ち物は何であれ貪り求めてはならない”(申命記5,21)。

『カトリック教会のカテキズム』は、第十戒の説明の初めに、”あなたの宝のある所に、あなたの心もある“(マタイ5,21)という言葉を新約聖書から引用し、第十戒の意味を次のように解説する。

「第十のおきては肉欲に関する第九の掟を繰り返し、そして補完する。第十戒は、第七戒で禁じられる盗み、略奪、詐欺の根となる隣人の財産への欲望を禁じる。”目の欲“(1ヨハネ2,16参照)は第五戒で禁じられる暴力や不正に導く(ミカ2,2参照)。欲望は、姦淫と同じく、十戒の初めの三カ条で禁じられる偶像崇拝にその起源を見る(知恵の書14,12参照)。第十戒は内心の意向に関するもので、第九戒とともに、神の十戒全体の要約である」(カテキズムn.2534)。

欲望の乱れ

「感覚的欲求は、所有していない好ましい事物を欲しがらせる。たとえば、飢えれば食を求め、寒ければ暖を求める。これらの欲求はそれ自体よいものである。しかし、欲求はしばしば理性の限度を守らず、自分の物ではない物や他者に属するか帰せられるべき物を、不当に欲しがらせる」(カテキズムn.2535)。

「第十戒は貪欲や地上の財貨を際限なく独占する望みを禁じる。第十戒は、富や権力への抑制なき欲望から生じる無軌道な欲望を禁じる。第十戒はまた、隣人の地上の財産を損なう不正を犯すことを禁じる」(カテキズムn.2536)。

「正当な手段をもって隣人に属する財産を得ようと望むことはこの掟にそむくことにはならない。伝統的カテキズムは、“誰よりもこの犯罪的な欲望と闘わなければならない人々がいる”が現実から、“いっそうこの掟を守るよう勧告しなければならない”と強調していう。

“商品が不足したリ物価が高騰したりすることを望んだり、売買人が自分だけであれば商品を高く売ったり安く買ったりすることができるはずなのにと考えて苛立ったりする商人がいます。さらに、売買するときに自分が利益を得ることができるために、他人がものに事欠くようになることを望むような商人もいますが、そのような人たちは罪を犯しているのです。…病人が出るのを望む医者や、重要な訴訟や裁判が行われるのを望む弁護士も同様です”(ローマ要理書3,37)」(カテキズムn.2537)。

「第十戒は人の心から妬み(ねたみ)を取り除くよう求める。預言者ナタンがダビデ王に悔い改めるよう求めたとき、物語ったのは、自分の娘のようにかわいがっていた一匹の羊しかもっていなかった貧乏人と、多くの羊をもっていたにもかかわらず、貧乏人をねたみ、その羊を盗んでしまった金持の話であった(サムエル記下12,1-4参照)。嫉みはもっと悪い犯罪を招くおそれがある(創世記4,3-7;列王記上21,1-29参照)。死がこの世に入ったのは、悪魔の嫉みによるものであった(知恵の書2,24)」(カテキズムn.2538)。

「妬みは七つの罪源の一つである。嫉みは、他人の財産を見て感じる悲しみや不当であってもこれを手に入れようという抑制なき願望を意味する。嫉みが他人の上に重大な悪を期待するとき、それは大罪である」(カテキズムn.2539。)。

「妬みは嘆きの一つの表現であり、したがって愛徳の否定である。洗礼を受けた者は親切心によって嫉みと闘わなければならない。嫉みはしばしば高慢心から出てくる。洗礼を受けた者は謙虚に生きるよう努めなければならない」(カテキズムn.2540)。