第十戒(2)聖霊によって生きる

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第十戒(2)聖霊によって生きる

カテゴリー 折々の想い 公開 [2014/10/15/ 00:00]

神の十の言葉である十戒は、聖霊によらなければ完全にこれを守ることができない。聖霊は、旧約を完成して新しい世界を開くキリストの贖いの実りであり、新しい人類を生かすキリストのエルギーだからである。

聖霊の望み

「律法と恩恵の計画は人の心を欲望や嫉みから引き離し、最高善への渇望に導き、人間の心を満たす聖霊の望みに生かす。

約束の神はいつも、世の初めから“食べるに適し、目を引き付け、賢くなるには望ましい”(創世記3,6)ものの誘惑から人を守られる」(カテキズムn.2541)。

「イスラエルに託された律法はそれに服する人を義化するには決して十分ではなかった。それは”欲望“(ローマ7,7参照)の道具ともなった。望むことと成すこととの間の不釣り合いは、理性の法でもある神の法と、”わたしの五体の内にある罪の原理のもとに、わたしを虜にしている“(ローマ7,23)もう一つの法との葛藤を示している」(カテキズムn.2542)。

「“今や、律法とは関わりなく、人を救う神の義が明らかに示されました。律法と預言者がそのことを証言しています。イエス・キリストへの信仰によって、神の義は信じるすべての人に差し出されています”(ローマ3,21-22)。それ以来、キリストを信じる人々は“肉をその欲情と欲望とともに十字架につけてしまったのです”(ガラテヤ5,24)。彼らは霊に導かれ(ローマ8,14)、霊の望みに従う(ローマ8,27参照)」(カテキズムn.2543)。

心の貧しさ

「イエスは弟子たちにすべてに越えてご自分を選ぶよう命じ、また彼らに、ご自分と福音のゆえに“一切の持ち物を捨てるよう”(ルカ14,33)勧告した(マルコ8,35参照)。ご受難の少し前には、乏しい中から生活費のすべてを捧げたエルサレムの貧しいやもめを模範として弟子たちに示された。富への執着を捨てることは天の国に入るために必要な条件である」(カテキズムn.2544)。

「キリストのすべての弟子は“福音的貧しさの精神に反するようなこの世の事物の利用と富に対する執着とによって、完全な愛の追求を妨げられることのないよう、自分の愛情を正しく導くよう注意しなければならない”(教会憲章42)」(カテキズムn.2545)。

「“自分の貧しさを知る人は幸いである”(マタイ5,3)。真福八端は至福と恩恵、美と平和の世界を啓示する。イエスはすでに神の国に入っている貧者の喜びを称えている(ルカ6,20参照)」(カテキズムn.2546)。

「主は富める者について嘆く。なぜなら、彼らは豊かな持ち物の中で慰めを見いだしているからである(ルカ6,24)。“高慢なものはこの世の国を求めてこれに溺れるが、心の貧しい者は天の国に属するがゆえに幸いでる”(聖アウグスチノ)。天の父の摂理に身をゆだねる者は明日の心配から解放される(マタイ6,25-34参照)。神への信頼は貧しい者を幸せに導く。彼らは神を見るからである」(カテキズムn.2547)。

”わたしは神を見たいと望む”

「真の幸福への望みは人間をこの世の富へのあくなき執着から解放する。神の直観と至福を実現するためである。“神を見るという約束は一切の幸福を超越する。聖書の中では、見ることは所有することである。神を見る者は人が持つことのできる富のすべてを手に入れている”(ニッサの聖グレゴリオ)」(カテキズムn.2548)。

「聖なる民に残されているのは、神が約束した富を手に入れるために、天からの恵みとともに戦うことである。神を所有し観想するために、キリスト信者は己の欲望を殺し、神の恵みに助けられて、快楽や権力の誘惑に打ち勝つのである」(カテキズムn.2549)。

「完徳へのこの道において、霊と花嫁はその声に聞く者を(黙示録22,17参照)神との完全な交わりに招く」(カテキズムn.2550)。