信仰をもってキリストに触れる

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > 信仰をもってキリストに触れる

信仰をもってキリストに触れる

カテゴリー 折々の想い 公開 [2014/11/15/ 00:00]

世の唯一の救い主イエス・キリストは、その死と復活、すなわち過越の神秘をもって救いの業を完成されたが、聖霊降臨後、ご自分の見えるしるしかつ道具である教会の典礼を通してその救いの業を表現し、現在化し、救いの恵みを分け与えておられる。

『カトリック教会のカテキズム』は典礼におけるキリストとの出会いについて述べる第2部の冒頭に、マルコ福音書から、象徴的な次の奇跡物語を紹介している。

 「(多くの群衆)の中に、十二年もの間、出血病(長血)を患っている女がいた。この女は多くの医者にかかって、かえってひどく苦しめられ、自分の持ち物をことごとく使い果たしたが、何の甲斐もなく、病はますますひどくなるばかりであった。イエスのことを聞いた彼女は、群衆に交じり、後ろのほうからイエスの衣に触れた。イエスの衣にさえ触れることができれば、救われるに違いないと思っていたからである。すると、立ちどころに血の源が乾いて、病気が治ったことを体に感じた。イエスもまたすぐに、ご自分の中から力の出ていったことに気づいて、群衆のほうを振り返り、『わたしの衣に触れたのは誰か』と仰せになった。そこで弟子たちは言った、『ご覧のとおり、群衆があなたの周りに群がっています。それなのに『わたしに触れたのは誰か』とおっしゃるのですか』。しかし、イエスは、ご自分に触れたものを見ようとして、辺りを見回された。すると、彼女は自分に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスのもとにひれ伏し、すべてをありのままに申しあげた。そこでイエスは仰せになった、『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうこの病気に悩むことはない』」(マルコ5,25-34)。

この物語の焦点は二つである。一つは、「イエスの衣にさえ触れることができれば救われる」と信じたこと、もう一つは、触れることによって直ちにキリストのからだから力が出て病気が治ったことである。

ちなみに、『カトリック教会のカテキズム』に掲げられた上掲の写真は、4世紀の初めに描かれたフレスコ画で、サン・ピエトロとサン・マルチェリーニのカタコンブ(地下墓地)にあり、上記のマルコ福音書の奇跡物語にでてくる、「イエスと長血(ながち)の女の出会い」を表している。『カトリック教会のカテキズム』はこのフレスコ画を説明して次のように述べている。

「このシーンはイエスと長血の女との出会いを表現している。長い年月苦しんできたこの女は、イエスの衣に触れたとき、“イエスから出てきた力によって”(5マルコ,30)癒された。

教会の諸秘跡は、現在、キリストが地上の生涯において完成した業を継続するものである(カテキズムn.1115参照)。諸秘跡は、キリストのからだから“出てくるちから”として、わたしたちの罪の傷を癒し、そして、わたしたちにキリストの新しいいのちを与えるためである(カテキズムn.1116参照)。

したがって、この絵は、秘跡的生活を通して人間を、霊魂も肉体も含めて、その全体を救う神の子の神的救いの力を象徴している」

そこで、この説明で指摘されているカテキズムの条項を見てみよう。

≫カテキズムn.1115≪ 「イエスの私生活の間の言葉や行い、そして公生活におけるその活動は、救いをもたらすものであった。それらは過ぎ越しの神秘の力の先取りであった。それらは、すべてが成し遂げられた後、教会に与えるであろうことを予告し、準備するものであった。キリストの生涯の諸神秘は、その後、教会の奉仕活動を通してキリストが諸秘跡の中でお与えになる恵みの根源であった。なぜなら、“わたしたちに見えるものであった救い主は、その秘跡の中に隠されているからである”(聖レオ一世)」

≫カテキズムn.1116≪ 「キリストのからだから“出る力”とは、キリストのからだである教会の諸秘跡の中で常に生きていて、また人を生かす聖霊の働きであって、諸秘跡は、新しい永遠の契約における“神の傑作”である」

秘跡、すなわち「見えないキリストの見えるしるしであり道具である」感覚的なしるしと信仰によってキリストのからだに触れ、その救いにあずかることができるということは、肉体と霊魂を併せ持つ人間にとって、この上ない恵みであり喜びである。まさに“神の傑作”としか言いようがない。