“キリストの神秘”に触れる典礼
カテゴリー 折々の想い 公開 [2014/12/01/ 00:00]
キリストによって創立され、聖霊降臨によって派遣された教会は、キリストのみ業、すなわち「キリストの神秘」を歴史の中で継続する。つまり、教会のかしらであるキリストは約束のとおり(マタイ28,20)教会の中に留まり、聖霊を通して救いの業を継続しておられる。
まず、“キリストの神秘”について、『カトリック教会のカテキズム』は次のように教えている。
「教会は、”信仰のシンボル”「Symbolum fidei」(註1)において、三位一体の神とその全被造物に関する“好意あふれる計画”(エフェゾ1,9)を宣言する。すなわち、御父は、世の救いとみ名の栄光のために、最愛の御子と聖霊をお遣わしになることによって、“み旨の神秘”を実現された。これが“キリストの神秘”(エフェゾ3,4参照)であって、一つの計画、賢明に秩序づけられた“順序”に従って歴史の中で啓示され、現実化された。これを、聖パウロは“神秘の経綸(註2)”(エフェゾ3,9)と呼び、そして教父の伝承は”受肉したみ言葉の経綸“または“救いの経綸”と呼んでいる」(カテキズムn.1066)。
次に、『カトリック教会のカテキズム』は、キリストの神秘が歴史のなかで、どのように啓示され、実現されたか、またどのように継続されているかを簡潔に示していう。
「≪人間にあがないをもたらし、神に完全な栄光を帰するこのみ業は、旧約の民のうちに神の威大な業によって予表されたが、主キリストは、その幸いの受難と、死者の国よりの復活と、栄光ある昇天より成る過越の神秘(註3)によってこれを成就され、この過越の神秘によって『わたしたちの死を死によって打ち壊し、生命を復活によって回復された』(復活祭の叙唱)。十字架上に眠るキリストの脇腹より、妙なる秘跡である全教会が生じたのである≫(典礼憲章5)。したがって、典礼において教会が執り行う祝祭は、主として、この過越の神秘である。なぜなら、キリストは過越の神秘によってわたしたちの救いのみ業を全うされたからである」(カテキズムN.1067)。
さらに『カトリック教会のカテキズム』は、キリストの神秘を記念する典礼が信者に何をもたらすかを解説する。
「教会が典礼において宣言し記念するキリストの神秘は、信者たちがこれによって生き、これを世に証しするためでる。≪事実、典礼によって、特に聖体の神聖なる犠牲において『われらの贖いの業が行われる』ものであるから、典礼は信者が、キリストの神秘と真の教会の本来の性格とを、生活をもって表し、他の人々にも示すために大いに役立つものである≫(典礼憲章2)」(カテキズムN.1068)。
要するに、聖体祭儀(ミサ)を中心とする教会の典礼は、秘跡的にではあるが、キリスト信者が主キリストにじかに出会い、その神秘にあずかる最高の機会なのである。換言すれば、教会とはキリストご自身に触れて生きる共同体である。聖パウロは、例えば次のように共同体に呼び掛ける。「エフェゾにいる聖なる人々、キリストに結ばれている忠実な皆さん」(エフェゾ1,1)。
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(註1) “ラテン語規範版の表現であるSymbolum fideiを直訳して“信仰のシンボル”としたが、ここにいうシンボルとは、語源であるギリシャ語では「そのものの同一性」を識別する割符の意味で、教会用語としてはキリスト者であることを識別し、その交わりのしるし(象徴)となるものであって、実際には、主要な信仰箇条の要約であり、事実上「信仰宣言」である。日本語では「信条」と訳され、使徒信条とニケア・コンスタンチノプル信条とがある。なお、ラテン語の信条の最初の言葉、Credo (わたしは信じます)から「クレド」とも呼ばれる。
(註2) 「経綸」とはOeconomia(エコノミア)の日本語訳であって、普通「計画」とも訳されるが、それはただの計画ではなく計画の実行をも意味するから、日本教会の古い習慣に従って経綸と訳してみた。したがって、「救いの経綸」とは、御父が人類と世界に対する愛のご計画を御子の派遣と聖霊の派遣をもって成就されたことを意味する。
(註3) キリストの神秘の中心であり頂点である「キリストの死と復活の神秘」はラテン語ではMysterium Paschale、通常「過越の神秘」と訳されるが、これを「過越の秘義」あるいは「復活秘義」と翻訳する向きもある。また、ミサの奉献文では「信仰の神秘」と呼んでいる。