新福者・パウロ6世教皇の追憶

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新福者・パウロ6世教皇の追憶

カテゴリー 折々の想い 公開 [2014/12/15/ 00:00]

故パウロ6世教皇(在位1963-1978)は、去る10月19日、家庭についての臨時シノドスの閉会ミサで、教皇フランシスコにより、福者の列に加えられた。第2バチカン公会議を召集した聖ヨハネ23世教皇の後を次いで、第2会期から第5会期の終了まで公会議を指導された偉大な教皇の列福を祝し、わたしなりに追憶したい。

聖パウロ6世が教皇に就任されたとき、わたしは長崎市八幡町教会の主任司祭であり、長崎教区の機関紙『カトリック教報』の編集長でもあったので、紙上で新教皇を紹介すると同時に、1964年に発表された最初の回勅”Ecclesiam suam”について、その大要を教区報に掲載した覚えがある。

わたしがパウロ6世に直接お目にかかったのはたった一度だけである。1969年11月 19日付でわたしを鹿児島司教に任命されたのはパウロ6世教皇であって、司教叙階後の1970年11月、マニラで行われたアジア司教集会に参加した折、臨席されたパウロ6世にお会いしてご挨拶した。だから、福者を追憶すると言っても教皇の教えを公文書でたどるしかないわけだ。

聖パウロ6世は15年にわたる教皇在位中、実に多くのさまざまな形で全教会を指導されたから、その教えは膨大なもので、この小論で論じ尽くせるものではないから、わたしの記憶に残る三つの文書に限定して語る以外にはない。

その一つは、先にあげた最初の回勅“エックレジアム スーアム”(Ecclesiam suam)である。この回勅は公会議の最中に出されたもので、教会の自己認識の重要性を強調したものであるが、その中で特に私たちの注目を集めたのは、福音宣教における「対話路線」の確認である。ただし、救いの対話は、真理をゆがめたり、弱めたりするものであってはならない。迎合主義と折衷主義は本質的に神の言葉と内容に対する懐疑主義に他ならない、と言われた。したがって、対話路線は諸宗教との単なる平和共存ではなく、信教の自由を踏まえた、あくまで積極的な「キリストの宣言」を目指すものである。教皇は言われる。「非キリスト諸宗教の人々にも、キリストの神秘の宝を知る権利があることを強く主張するのが、教会の立場である」(パウロ6世使徒的勧告『福音宣教』.53)。

第二は、産児制限を認めないカトリックの教えを確認した1968年の回勅“フマーネ ヴィーテ”(humanae vitae)である。カトリック教会の厳しい掟に対する反対の嵐の中での苦渋の決断であったこの回勅は、あまりにも有名で、列福式で教皇フランシスコは、「世俗化し敵対的な社会の到来に直面して、パウロ6世は、長期的展望と知恵をもって、時には孤独でも、ペトロの船のかじ取りをしっかりと果たした」と述べた。

第三は、1975年12月8日に公表された使徒的勧告『福音宣教』(Evangelii nuntiandi)である。これは、1974年の第三回シノドスのまとめとして発表された。この使徒的勧告は富沢孝彦司教の分かりやすい名訳でも有名であるが、第2バチカン公会議の後、教会の新しい刷新運動と共に、さまざまな誤解や早とちりの中で混乱も少なからずみられた時代、何よりも「福音宣教」についての迷いや停滞が見られた状況下で、福音宣教の重要性やその在り方に関して確固とした指針を示されたという意味で、重要なで勧告ある。

この勧告の中で、わたしが指摘したいのは、「福音宣教とは何か」を取り扱ったnn.18-19である。その中で、パウロ6世は、「福音宣教は、良い知らせを人類のすべての階層にもたらして、人類を内部から変化させ、新しくするという意味をもっている」と述べ、福音宣教の目的が世界の内的変化にあることを明確にした(n.18)。「教会にとって福音宣教とは、ただ単に宣教の地理的領域を拡大して、より多くの人々に布教することだけでなく、神の言葉と救いの計画に背く人間の判断基準、価値観、関心の的、思想傾向、観念の源、生活様式などに福音の力によって影響を及ぼし、それらを転倒させることである」(n.19)。

ここに指摘した教皇の言葉の中で、「ただ単に宣教の地理的領域を拡大して、より多くの人々に布教するだけでない」という言葉が誤解され、「非キリスト者への宣教」(missio ad gentes)を軽視する傾向が一部に見られたが、とんでもない話である。同じ個所で教皇は述べている。「まず、最初に洗礼を受け、福音に従った生き方によって新たにされた“新しい人々”がいなければ、新しい人類は生まれません」(n.18)。この言葉は、福音宣教における洗礼の重要性を指摘したもので、洗礼による再生の恵みを成熟させ、積極的な対話を通してキリストを宣言する使徒的な信者個人ならびに団体を育成して派遣することの重要性を意味する。洗礼を通して価値観は転換され、神の国は到来するのである。

教皇は勧告の中でいわれる。「教会は目の前に、福音を必要とし、それを受ける権利を有する無数の人々を見ている」(n.57)。福音宣教を教会の使命、すなわち「義務」と見る教皇の教えはいまも生きている。この重要な教えを新たにすることが、パウロ6世教皇列福の「摂理的意味」ではないかと思う。