日本敗戦とキリスト教

日本敗戦とキリスト教

カテゴリー 折々の想い 公開 [2015/01/01/ 00:00]

昨年夏あたりから「戦後70年」という言葉が聞かれるようになったが、今や日本敗戦70周年の年が明けた。当時17歳だったわたしは、戦前・戦後のことが走馬灯のようによみがえるのを感じている。中でも、キリスト者であり聖職者でもあるわたしにとっては、日本敗戦によって法的に信教の自由が認められたことが一番印象的である。

1549年、聖フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられて以来、70年前の敗戦のときまで、わが国のカトリック教会の歴史は「偏見と迫害の歴史」であったと言っても過言ではない。

キリスト教への排斥と迫害は、ザビエル来日から一年後に始まった。ザビエルらの懸命な宣教活動によって日本人信者が100人に達したころで、「僧侶たちは、領民が新規渡来の宗教の信者になることを許すならば、神社仏閣は破壊され、三州統一の業まさに成らんとする現在、領民は離反するであろう(ザビエル書簡)と領主を脅かした。こうして僧侶たちは、キリスト信者になった者は誰でも死罪に処すと領主が命ずるよう策謀した。…領主は僧侶たちの要求を容れ、誰も信者になってはならないと布告した」(河野純徳著『聖フランシスコ・ザビエル全生涯』)。

その後、キリスト教は織田信長の庇護によって小康を保ったが、豊臣秀吉による宣教師追放令(1587年)や日本26聖人の殉教(1597年)を経て、徳川家康によるキリスト教禁教令などによってキリスト教の迫害がはじまり、殉教の時代から潜伏時代へとキリスト教の探索と弾圧の歴史は続いた。明治になり、欧米列国の抗議によってキリシタン禁制の高札が撤去され(1873年)、明治憲法によって「日本臣民は安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限りにおいて信教の自由を有す」(大日本帝国憲法第28条)とされたが、この信教の自由も「国家神道」の下の自由であって、宗教活動にさまざまな制約が課されたことは周知のとおりである。

特に、15年に及ぶいわゆる昭和戦争の間、ご真影の崇拝や神社参拝の強制、外国人宣教師や修道者たちの強制収容、一部日本人司祭のスパイ容疑による投獄、中でも奄美大島における宣教師の追放・カトリック教会の没収・カトリック信者たちへの嫌がらせやいじめはひどかった。鹿児島本土でも、聖名女学校のカナダ人修道女の追放や校舎の接収などがあった。山口愛次郎大司教は、第2代鹿児島教区長であった頃、常時特高警察に尾行されていたと、わたしに話されたことがある。

このように、日本の教会は、明治憲法の規定に従い、最大限の譲歩をもって国法を守り、国の方針に協力してきたが、国は“和魂洋才”の偏見によってキリスト教徒を非国民扱いし、さまざまに弾圧してきた。しかし、あの敗戦後、GHQの“神道指令”によって国家神道は解体され、天皇はいわゆる“人間宣言”によって絶対君主の地位を自ら捨てた。こうして新生日本に、キリスト教宣教開始以来400年ぶりに完全な信教の自由が訪れたのである。 1946年(昭和21年)11月3日に公布された日本国憲法は述べる。「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。②何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。③国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」(第20条)。

しかし、憲法によって保障された信教の自由はあくまで政治的かつ社会的な信教の自由であって、人間の内面的自由を保障するものではない。いかなる人間的権威も人間の内面的な自由を奪ったり与えたりすることはできない。だから教会は、平時にも、迫害の時代にも、忠実に信仰を守り、そして伝えてきた。日本においても例外ではない。

その一つの例が、今から150年前の1865年(慶応1年)3月17日、落成したばかりの長崎・大浦天主堂において、250年にわたる潜伏時代を生き抜いた浦上のキリシタンが数名訪れ、堂内にいたプチジャン神父に「信仰」を告白する出来事があった。世に言う「信徒発見」であり、「キリシタンの復活」である。長崎では来る3月、盛大にその記念が行われる。

戦争が終結して70年、恵まれた信教の自由の時代はどのように進展してきたか、あらためて振り返るのは重要なことだ。経済的にも精神的にも最低の状態から立ち上がり、懸命に働いて復興を成し遂げ、世界第二位の経済大国に上りつめた日本は、神信仰の自由が物質信仰ないし拝金信仰へと様変わりした感が無きにしも非ずだが、低成長あるいは脱成長時代を迎えた今、あらためて神信仰の自由を取り戻すよい機会ではないかと思う。