国家のイメージ――「政治共同体」

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国家のイメージ――「政治共同体」

カテゴリー カトリック時評 公開 [2011/07/15/ 00:00]

東日本大震災を「国難」(National Crisis)と捉える議論が盛んである。そして、この国難にどう取り組み、どうこれを乗り越えるかが問われている。つまり、国難に際しては国の在り方自体が問われることになる。国家とは何か、そのイメージを考えてみたい。

国家のイメージはそれぞれの世界観に従って種々考えられるが、カトリック社会教説においては、国家を「共同体」と捉える伝統がある。人間は社会的動物であり、共同体の中に生れ、そこで生きていく。人間共同体には霊肉両面に即して二種類の共同体がある。現世的秩序においては「家庭」と「国家」があり、霊的秩序においては「家庭」と「教会」がある。以上が、人間が生きていく上での本来の(本性的)共同体であり、その他の他の諸共同体は何らかの外的目的のためのもので、前者をゲマインシャフト、後者をゲゼルシャフトとドイツ語で表現されることが多い。

ところで、社会的存在としての人間は、共同体なくしては人間として生きて成長することができない。家庭については、種々の理由により、今や崩壊の危機にさらされてはいるが、その重要性について疑うものはいないだろう。一方、国家という政治共同体についてはどうだろう。「現代においては国家の構造と組織について大きな変質がみられる」(現代世界憲章73)ともいわれ、今なお流動的であるが、基本的なイメージとして「共同体」であることの意義は変わらない。

共同体とは、一人ひとりの人間人格がそれぞれの能力と仕方に従って参加し、協力すると共に、共同体の恩恵を公平に受けて自らの人生の目的を追求する集団である。従って、メンバーの全員参加がまず重要である。参加することは共同体の使命を分に応じて分かち合うことを意味する。家庭を例にとれば、夫婦、親子、兄弟といった多様なメンバーが、各自の役目を果たしながら助け合う。その貢献の仕方はいろいろであるが、協力のお陰で強いものも弱い者も結果的には平等に生かされて幸福を享受する。共同体のメンバーの一人ひとりにとって共同体は人間として生きていくための不可欠の手段であり、そしてメンバーの一人ひとりが共同体の目的となる。

国家は、現世的秩序において、つまり、この世の生活のために、一人一人の国民にとって必要不可欠の政治共同体である。国家といえば、日頃は空気のようなものであまり自覚することもなく、何かと不平不満のはけ口でしかないようだが、いざという時には、受けている国家の恩恵を自覚することができる。今回の大震災において、被災地に対して国民の同情や義捐金が数多く寄せられ、かつてなかったほどボランチアが被災地にはせ参じた。政府や国会も、遅ればせながら様々に心を砕いて被災者の救援や被災地の復興に尽くそうとしている。大震災を前にして、国家共同体がその本来の使命にあらためて見覚めた恰好である。

「未曾有の国難」といわれる今回の大震災や福島原発事故は、予期せぬ経済発展に浮かれ、果ては世界金融危機に際しても「夢よもう一度」と経済大国への未練に取りつかれていた日本が、あらためて国家とは何かを問い、真に国民一人ひとりを生かす政治共同体として再出発する機会が与えられたわけだ。そこでまず問われるのは国民の共同体意識である。大震災以来、すでにその意識は発揮され、行動に示されつつあるが、公共の福祉と公平な恩恵享受に反する個人主義的、利己主義的行動も少なくはない。

同時に、もっとも重要なことは政治の刷新である。「政治は「困難で高貴な技術ars difficilis et nobilissima」(ピオ11世 )である。公会議は述べた。「政治共同体は共通善のために存在するのであって、政治共同体はその意味とその完全な正当化を共通善の中に見出し、またそこから最初のそして本来の権利を得る。共通善は個人・家庭・団体がそれぞれの完成に、より完全に、より容易に到達することができるような社会生活の諸条件の総体である(現代世界憲章74)。「党派や統治者自身の利益のために権力を曲げて行使するような政治形態は、いかなるものも排除される」(同上73)のである。