世界の中の日本になる
カテゴリー カトリック時評 公開 [2011/08/01/ 00:00]
東日本大震災は日本人にとって一つのパラダイム転換の時となった。あの時から、世界の中の日本であることを、新たに意識し、自覚したのではなかったか。たとえば、世界一を目指した日本が、実は世界と同等のものでしかなかったというように。
6月6日の南日本新聞の時論コラムで、緒方貞子さん(国際協力機構理事長)の「他国に学び支援受ける――相互依存深める国際社会」という一文が載っていた。東日本大震災を機に、日本が支援する国から支援される国になったことを指摘しながら、日本が何も特別の偉い国ではなく、世界中のいろんな国と同じように、助けたり助けられたりする普通の国であるという。緒方さんは書いている。
「震災直後から、20カ国以上の国・地域や国際機関の緊急援助隊、医療支援チームなどが派遣され、活動している。…こうした緊急支援に加え、150を超える国・地域から、さらには多数の国際機関から、義捐金や物資の提供があった。それらの多くの国が、これまで日本が長年にわたって援助してきた開発途上国で、その中には日本との経済的なつながりが強い東南アジアの国々だけでなく、ルワンダ、スーダンなどアフリカの国々も多く含まれている」。
こうした記事を読みながら、わたしはあの言葉を思い出した。「人間はその本性においては平等であるが、その偶有的素質においては個人間に差異がある」(国際社会研究会編『社会綱領』Code Social/1948)。古い本だが、日本国憲法が制定された年の出版であり、その内容は色あせることなく、時代を超えた真理が述べられている。特にこの名言はそうであり、個人間においてばかりでなく、国際間にも言える真実である。たとえば日本と諸外国との間にも適用されるということである。
第一に、人間は互いにさまざまな点で違いがある。顔かたちの違いから性格や能力の違いなど、一目瞭然である。民族間や国家間にも、独自の歴史や伝統ゆえに、さまざまな文化や国民性の違いがある。近代以降、個人間、国際間の違いが強調され、自由競争も激しい。それに、個性を大事にする風潮はよいとしても、違いだけを強調する個人主義や国家主義が広がり、いろいろの紛争や対立を生んでいる。
しかし、個人間、国際間にさまざまな違いがあっても、その違いは偶有、すなわち、たまたまの違いであって、その本性(本質)において人間は平等であり、同一である。人間の本性(本質)とは人間でることそのもののことであって、人間であるという限りにおいて、すべえの人間は平等であり、同一なのである。世界中のすべての人が、同じ一つの人間本性を共有しているというこの認識は極めて重要であり、世界が小さくなり、日々の生活において、世界中が直接影響し合う時代になった今日、絶対に忘れてはならない真理である。この認識こそが世界平和の原点であると言っても過言ではない。
キリスト教においては、人間は一つの本質を分かち合う「一つの人類」として創造されたと教えている。アダムの創造は、個人の創造であると同時に、人間本性の創造、そして一つの人類の創造であったのである。従って、個人として、また国民として、互いにどんなに違っていても、人類は一つでなければならないということである。教会では、古くから「多様性における一性」(Unitas in varietate)ということが言われてきた。そして、多様性自体が一致を求め、一致があれば、多様性はむしろ豊かさのしるしであると教えている。そして教会は、つねに人類の一致を目的として活動してきた。「キリストと教会の中では民族、国家、社会的地位、性に関して何の不平等もない。なぜなら、『ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由民もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエズスにおいて「ひとり」だからである』(ガラテア3,28)」(教会憲章32)。
東日本大震災において、日本はようやく「世界の中の日本」になったといえる。これまであったかもしれない劣等感や優越感を捨てて、同じ人間として世界中の人々とおなじ視線と感情をもって対等に付き合い、相互扶助をモットーに助け合うべきである。一切の差別や対立を排して、世界の恒久平和の働き手として、新たな一歩を踏み出したい。そうすれば、来る原爆記念日や終戦記念日はことさら意義あるものとなるだろう。