「いじめ自殺」が残した教訓
カテゴリー カトリック時評 公開 [2007/01/15/ 00:00]
――いのちを守る家庭の再建と隣人愛を育てる教育――
昨年もいじめや虐待死など、幼児・児童・生徒にまつわる悲しい事件が相次いだ。いじめは昔からあったが、その後の報道によれば、いじめの実態はかなり深刻で、全国に広がっているという。あらためて、いじめ自殺からいくつかの教訓を引き出してみたい。
1-いのちを守るのは家庭
いつの世でも世間には厳しい生存競争があり、利害の対立がある。また、さまざまな欲望や誘惑も渦巻いている。大勢が集まる場である以上、学校とて例外ではない。その上、愛された体験がなく、自由放任教育の結果、欲望に歯止めが効かないいじめ体質を持った子が増殖している可能性もある。とすれば、学校側の懸命のいじめ対策にも限度があり、従って、子どものいのちを守る最終のとりでは家庭ということになる。
教会は、家庭を「いのちの聖域」と呼び、次のように述べている。「家庭こそ、神の贈りものであるいのちがふさわしく迎えられ、降りかかる多くの攻撃から守られる場であり、真の人間的成長をもたらしつつ発展することのできる場なのです。いわゆる死の文化に対して、家庭はいのちの文化の中心です」(ヨハネ・パウロ2世回勅『新しい課題』39)。
家庭が正常に機能している限り、たとえ子どもが外で競争に疲れ、傷ついて帰ってきても、両親その他の家族の暖かい愛情で心の傷を癒し、再び挑戦する元気を取り戻していく。しかし、こうした標準的な家庭に対し、そのように機能しない「変則的な状況」にある家庭(ヨハネ・パウロ2世『家庭への手紙』5)の増加が心配されている。
2-個人主義に蝕まれる家庭
現代の自己中心的な個人主義は、普通の「良い家庭」にも人知れず入り込んで、家族の絆を弱める恐れがあり、また、誇張された個性尊重主義のためか、家族でありながら互いの喜びや悲しみを共有することが困難になる場合も出ている。自殺に追い込まれるほどの家族の苦しみに気づかないケースが少なくないのである。互いの主体性を尊重しつつも、家族愛による心の架け橋をはずしてはいけない。
一方、個性偏重主義や過度の自立要求は、他人に頼らず、一切の責任を自分ひとりで背負い込む風潮を生んでいるとある専門家は言う。しかし、自らいのちを断つことに関しては「自己責任」も「自己決定権」も通用しないのである。自分のいのちといえども、いのちはすべて神の領域に属するものであって、人はこれを損なってはならないのである。
3-いじめ予防の対策
いじめから子どもたちを守り、子どもたちの心を癒す家庭を取り戻す一方で、いじめを予防する対策として、「いじめに強い人間」、そして、「人をいじめない人間」を育てる必要がある。それは個人主義とは対照的な「隣人愛」を育てる教育を意味する。
そのためにまず、基礎的な人格形成を確実、丁寧に行なうことである。それは、理性(良心)が目覚める幼児期に、家庭やこれを補う幼稚園などで行われる。その内容は、宗教教育によっていのちの神秘と召命に目覚め、真に隣人を愛する良心を形成することであり、同時に、社会性を習得して隣人仲良く付き合う知恵と習慣を身に着けることである。
もう一つは、宗教生活を大切にすることである。現実の人間は内に矛盾と弱さを抱えており、自分の力だけでこの矛盾を克服し、世間の荒波に耐えるほど強くなれるものではない。むしろ自分の弱さを認めて神の教えに学び、へりくだって助けを求めるならば、神は照らしと助けを与え、強めてくださるに違いない。「神は高ぶる者に逆らい、へりくだる者に恵みをお与えになるからです」(1ペトロ5,5;ヤコブ4,6.また箴言3,34参照)と聖書は教えている。
(次回は2月1日、「平和な日本再生の鍵は労働問題」について)