カトリック学校への期待

カトリック学校への期待

カテゴリー カトリック時評 公開 [2007/04/15/ 00:00]

カトリック学校は宗教的真理探求の場であり、日本の文化継承の場である

4月は入学の季節。今年も多くの子どもたちが胸膨らませて入学を済ませたことであろう。時あたかも教育改革の論議が日本中で続いている。そこでわたしはカトリック学校を取り上げてみたくなった。カトリック学校に改革の先頭に立ってもらうためである。

カトリック学校とはカトリック教会の権威、具体的には地域の教区司教の認可と派遣を受けた学校のことである。はじめに、日本にあるカトリック学校(幼稚園を含む)の施設数を、2002年12月の統計から紹介しておこう。幼稚園557、小学校54、中学校98、高等学校113、短期大学26、大学18、高等専門学校1、各種学校6、専修・専門学校9、特殊教育諸学校1の合計883である。5年前の統計だから現在は少し変動があるかもしれないが、わが国カトリック教会の教勢から見て実に多い学校数であり、そこでカトリック的教育を受けた多数の卒業生が各界各層で活躍しているわけで、カトリック学校がわが国教育界に果たしてきた貢献度は高いと言わねばならない。

しかし、少子化や過疎化が進む中、私立学校の経営は一部地方を除いて決して楽ではないと承知している。これまで指導的役割を果たして来た司祭や修道士、修道女も減少し高齢化して、後継者問題はかなり深刻である。こうした中で注文をつけるのにはいささか遠慮もあるが、カトリック学校の名前を掲げている以上、思い切って次の二点を敢えて指摘しておきたい。

第一は「信教の自由」の問題である。

ここにいう信教の自由とは(註)、理性と啓示によって知られる人間の尊厳に基づくもので、良心に従って特定の宗教を自由に信奉する権利・義務のことである。カトリック学校における信教の自由の問題には二つの側面がある。一つには、カトリック学校に通う生徒(園児、児童、学生を含む)にカトリックの信仰を、具体的には洗礼を、強制しないことである。信仰や洗礼は自分で(幼児の場合は保護者が)自由に選び取るものであって、この自由は十分に守られていると思う。

もう一つは、カトリックの教えを生徒に教える自由である。信教の自由には、宗教的真理を自由に探求する権利と義務が含まれる。自ら存立できない人間がその存在の究極の根源を尋ね、そのかかわりを問うことは理性的人間として当然の欲求であり、人格形成の原点でもある。また、この宗教的真理探究の自由こそ私学の私学たるゆえんである。従って、生徒側には自分が選んだ学校からカトリックの教えを学ぶ権利があり、学校側には自分たちが教育の理念とするカトリックの教えを教える義務があるということになる。この点、カトリック学校側の対策は十分であるか否かが常に問われなければならない。そこに遠慮やためらいがあってはならないと思う。加えて、神の生きた言葉であり、完全な人間でもあるキリストご自身を生徒に指し示しているかどうかの問題がある。カトリック学校が目指すカトリック的人格形成の唯一最高のモデルはキリストだからである。校長を長年勤めたことのある神父はいみじくも言った。「カトリック学校はキリストとの出会いの場である」。

第二は、「インカルチュレーション」の問題である。

インカルチュレーションとは第2バチカン公会議後教会が強調している問題で、諸国や諸民族の文化を否定せず、かえってこれを尊重して、その影の部分を清め、光の部分をさらに延ばすことがその真意である。いわば諸文化の根底にあってこれを生かす魂を福音化することである。同時に、文化の違いを、分裂や対立の理由とせず、かえってこれを人類の豊かな遺産とするため、人類普遍の愛の原理で一つに結ぶのである。

カトリック学校がその教育活動を通してインカルチュレーションを目指すことは当然である。文化の発展的継承は教育の使命であり、文化の福音化は教会から託されたカトリック学校のもう一つの使命だからである。

それにしても、カトリック学校のこの広範で難しいインカルチュレーションの課題について、もっと公然と語られ、議論されてもよいのではないかと思う。たとえば、これは特殊な例かもしれないが、公立学校を騒がせている日の丸・君が代も、軍国主義から平和主義へと魂を入れ替えれば、平和憲法下の平和国家日本の象徴となりうるのではないか。また、ある日本語を差別語とする慣習は人々の間にある現実の「差異」を「差別」として固定する恐れがあるが、差別語を作るより、差別心を隣人愛に切り替えれば、人々は境遇の違いを超えて一つになれるのではないか。

いずれにせよ、カトリック学校の勇気ある挑戦に期待する。

(註) 信教の自由の意味するところを十分に理解するには,憲法20条の文面だけでは足りない。第2バチカン公会議の『信教の自由に関する宣言』は簡潔ではあるが、信教の自由本来の意味、目的について、理性と啓示の両方の根拠を示しながら明快に説明しており、関心のある方には特にお勧めする。