人はなぜ、何のために働くのか

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > 人はなぜ、何のために働くのか

人はなぜ、何のために働くのか

カテゴリー カトリック時評 公開 [2007/05/01/ 00:00]

人間は活動することによって物と社会を変えるばかりでなく、自分自身を完成させてゆく

5月1日は労働者の祭典・メーデーの日でもある。1886年5月1日、アメリカのシカゴで始まったメーデーは、わが国では1920(大正9)年、上野公園で始めて行われたが、戦時中一時中断され、1946(昭和21)年に再開されて今年は第78回目を数えるという。だが最近は組織の分裂に加えて大型連休との絡みで気勢が上がらないという。豊かになった今、労働問題よりレジャーが優先ということか。メーデーの意義は変わらないと思うのだが、今年はどうなるのだろう。

では、カトリック教会ではメーデーとどうかかわってきたのだろうか。はっきり言って、教会は労働者の境遇について絶えず配慮してきたけれども、メーデーには直接かかわっては来なかった。ただ、メーデーにちなんで働くことの内面的な意義について考える機会にしたことは確かである。その証拠に、教皇ピオ12世は1955年、5月1日を「労働者聖ヨゼフ」の記念日に定め、キリスト者に労働の尊さの模範を示したからである。そこで今回は、教会の教えに従って、労働を働くこと、あるいは人間の活動全般に広げて、その効果と霊的な意味について少し考えたいと思う。

まず、冒頭に掲げた文章であるが、これは第2バチカン公会議の言葉で(現代世界憲章35)、前半の「人間は活動することによって物と社会を変える」というのは、働くことの客観的な成果を指摘しており、後半の「自分自身を完成してゆく」とは、働く主体、つまり働く人自身の中にもたらされる効果を指摘するものである。前教皇ヨハネ・パウロ2世は、「働くことを通して、人は人間として自分を充実させ、言ってみれば、もっと人間になる」と表現している(回勅『働くことについて』9)。経済的な効率だけを追求する経済至上主義の風潮の中にあって、働く主体である人間人格が、自分が持つ能力を精一杯発揮して自分を表現し、充実させ、完成してゆく価値を重視することはきわめて大切なことで、日常の家事労働や隠れた奉仕活動、さらには身障者たちの健気な能力開発の努力などに光を当て、その価値を認めることになるはずである。

次に、働くことの霊性について考えてみよう。霊性とは、一般に肉眼に隠れて見えない精神的な現実を言い、教会では特に人生の究極的な根源であり目的である神とのかかわりの中でのものの性質や価値を意味する。働くことの霊性について教会は次の二点を強調する。

① 人間は働くことを通して、創造主の活動に参加する

愛に駆られて世界を創造した神は、ご自分の似姿として人間を創造してこれに世界を任せ、「地を治めよ」(創世記1,28)と命じられた。「地を治める」とは、神が創造した世界に働きかけ、これを神の計画に従ってふさわしく完成してゆくことを意味する。職業に貴賎はないといわれるが、働くことの真の尊厳と価値は、人間の活動が神の創造の業に協力する限りにおいてであることがこれで明らかになる。その上、教会はキリスト、すなわち人間となった神の御子キリストが、公生活に入る前、ナザレの家庭において大工として働かれたことを重視し、これによって労働が聖化されたという意味で、これを「働くことの福音」と呼んでいる。

②人間は働くことの労苦を通してキリストの救いの業に参加する

肉体的であろうと知的であろうと、働くことには必然的に労苦が結びついている。この労苦は、罪がもたらしたのろいを意味する。神に逆らったアダムに神は言われる。「お前のゆえに、地はのろわれる。生き続ける限り、お前は苦労して、地から糧を得る」(創世記3,17)。一方、ヨハネ・パウロ2世は言われる。「キリストの救いの仕事は苦しみと十字架上の死を通して実現されました。わたしたち人間のために十字架にかけられたキリストとの一致のうちに仕事の労苦に耐えることで、人間は人類のあがないのために、神の子キリストといわば協力するものです」(回勅『働くことについて』27)。