道徳教育は良心の教育

道徳教育は良心の教育

カテゴリー カトリック時評 公開 [2007/05/15/ 00:00]

教育再生会議は「道徳の時間」を徳育として「教科」に格上げすることを提案している。これに対し、ある全国紙の社説は、「必要な徳性を養うことに誰しも異論はない」と総論に賛成しながら、「こころに点数はつけられない」と各論に反対していた。従来、国が道徳教育に触れることに疑問を呈する識者は多かったが、為政者のイデオロギーの押し付け、中でも教育勅語の復活を懸念したからであろう。とはいえ、道徳教育は人生を左右する重大な課題である。そこで、ここでは公教育に限定せず、人間教育一般における道徳教育の基本についておさらいしておこう.

1) 人生の道しるべは人の心の中に

人生には踏み行うべき道がある。その道は各個人が決める前にすでに決められている。人間自体が造られた存在であり、生かされている存在だからである。しかも、人生の道標は各個人の心の中にある。古来、人はこれを良心と呼んでおり、万人が共通にこれを認めている。善を行い、悪を避けるよう人に勧め、必要に応じてこれを行え、あれを避けよと人に命じる良心の声に従うことが、知恵と自由を備えた人間人格(ペルソナ)の本来の生き方である。つまり、他者からの強制によらず、自らの良心に聞いて行うべき道を識別し、自由に選択して行動するのである。

2) 良心の声は神からの声

良心の声は明らかに自分自身の声ではない。たとえノーと言っても取り消すことができず、逆らえばいつまでも呵責が残る。だから教会は教えている。「人間は心の中に神から刻まれた法を持っており、それに従うことが人間の尊厳なのであり、また人間はそれによって裁かれるのである」(現代世界憲章n.16)。ここに言う「法」とはすなわち「良心」であって、従って、良心の声は神からの心の声なのである。

良心に従う生き方の手ほどきは、幼児期から両親によって行われる。子どもにとって両親は神の代理人であり、少なくとも幼児期までは子どもの良心の代行者でもあるから、親は、その模範と折々の教えとによって、子どもの良心の目覚めと形成に関わり、良心に従って生きるよう習慣づける。一方、子どもには両親従う義務があり、それは成人するまで続く。両親によるこの良心の教育は、子どもが成長するに従って、徐々に親から離れて直接自分の良心、ひいては神に従うよう導かれる。両親への従順は神への従順に通じているのである。

聖書は教える。「神を恐れることは知恵の始め」(詩篇111)。良心の声の背後におられる神を畏れ敬い、人が見ていなくても神はいつも見守っているという意識なしには、道徳教育はそれほど意味を成さない。自由行為に伴う責任とは、良心の声を通して語る神に対して取るべきものであって、自分に対してではないからである。残念ながら現代は「神を恐れない」世俗社会であり、自分をいわば神格化して自己決定を至上の生き方とする風潮や教育が蔓延しているから、この障害を克服しない限り道徳教育の成功は保障されないであろう。

3) 良心は教育によって育てられる

良心は理性の目覚めと共に目覚めるが、同時に目覚める欲望や取り巻く環境、そして誘惑によって曇らされ、ゆがめられることは経験が示すところである。加えて、文明が発達し、世の中が複雑になれば良心の声を的確に識別することが困難になり、価値観の多様化と相対化は良心を鈍らせ、誤らせる危険を増大させる。従って、道徳教育においては、年齢の発達段階に応じ、必要に応じて道徳の知識を学ぶ必要がある。道徳に関する限り無知は最大の悪であり恥じである。

道徳の知識の学習には二つの方法がある。一つは、理性の働きによるもので、理性の推理を通して心の中に刻まれた「自然の法」を読み取ることである。この理性の働きを補うもう一つの道は、宗教、特に神の啓示を受けた聖書の教えを学ぶことである。その中心は「モーセの十戒」(申命記5、6-21)と、その結びである「神と隣人への愛」の掟である(申命記6,4-5、レビ記19,18参照)。この旧約の掟を、キリストはその模範と神の愛(アガペ)の賜物とによって完成し、弟子たちに命じて言われた。「わたしは新しいおきてをあなたたちに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13,34)。

なお、現代教会の「社会教説」は、利害が複雑に錯綜している現代社会において不偏不党の倫理基準を示すから、良心の判断を大いに助けてくれるであろう。

結語に代えて、教皇パウロ6世の国連演説(1965年)から引用したい。「これほど人類が進歩した今日以上に、人間の良心に訴える必要性に迫られた時はかつてなかった」。