衰えぬ人命軽視の風潮
カテゴリー カトリック時評 公開 [2007/06/01/ 00:00]
―どうすれば繰り返される殺人の悲劇を克服できるか―
長崎市長銃殺事件や米国の大学における大量銃殺事件は衝撃的であった。しかし、このところ中近東その他における自爆テロやその報復をはじめ、内外における殺傷事件が報道されない日はないほど日常茶飯事となり、当事者を別にすれば、あまりにも当たり前のことで、もはや衝撃的ですらなくなった感がある。この深刻な事態は、単に銃規制で解決されるような生易しいものではなく、もっと根本的な対策が求められているように思う。
「なぜ人を殺すのか分からない」と、ある連続殺人事件を追う佐木隆三氏は毎日新聞で語っていた。殺人犯の心理が推測しがたいというのである。それほどに、人が殺し合うのには何か奥深い秘密があるということでもあろう。その秘密を聖書は明らかにしている。特に創世記はアダムとイブの罪に続いて、その息子たちの間に起きた兄弟殺しについて語っている。つまり、人間の罪によって倫理的な秩序が乱れ、人の心に矛盾が生じて、善と悪との葛藤が始まったのである。この矛盾を克服しない限り、真の平和はこの世に訪れることはないであろう。ではその対策は。
1-人間のいのちは神聖にして不可侵
人命軽視の風潮を克服するには、まず、人のいのちが神聖で、しかも決してこれを侵してはならないことを確信することからはじめなければならない。人間は神聖な神の似姿として(創世記1,26)造られ、「それ自体のために望まれた地上における唯一の被造物」(現代世界憲章24)であるから、「たとえどんな状況にあったとしても、無害な人間を意図的に破壊する権利を主張することは、誰にもできない」(『生命のはじまりに関する教書』序文5)のである。
そのため、神は「殺してはならない」(出エジプト記20,13)と厳しく戒めており、教会は「一貫してこのおきてが有する絶対的で不変の価値を教え続けてきた」(『いのちの福音』54)のである。そして、「神のかたどりを帯びる人間を殺害することは特別に重大な罪」(同上55)であると教える。
同時に、人間の神聖ないのちを守るために、聖書は「愛のおきて」を明らかにして、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19,18)と命じている。そしてキリストは「人にいのちを得させるために」(ヨハネ10,10)自分のいのちを犠牲にして、「わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13,34)と命じ、愛の模範と力を与えたのである。
以上、二つのおきてを教え、かつ実践することが人命軽視の風潮を克服する基本条件である。換言すれば、自他共に「生きる」という基本的人権を擁護し(正義)、これに奉仕すること(愛)である。
2-殺人を容認する口実の徹底的な否定
人命軽視の風潮を是正するためには、もう一つ、人のいのちを損なうことを容認する理由(口実)を厳しく限定する必要がある。個人の場合も国の場合にも、「正当防衛」の権利は誰もが知っていよう。しかし、最後の手段であるはずの正当防衛の解釈は拡大され、あいまいにされている。そのあいまいさゆえに、自己中心の身勝手な口実のもとに無益な殺生が繰り返される事情がある。
大量破壊兵器が開発され、市民を巻き込んだ殺し合いでしかなくなった戦争は、決定的に否定される時代であることをまず強調したい。まして先制防衛の戦争なんてナンセンスである。自爆テロを自衛の聖戦だと言った者があるがとんでもない。神の名を借りた卑劣な暴力に過ぎぬ。
死刑廃止の思想と運動を推進しなければならない。死刑制度を設けた従来の理由はほとんど無意味になったと教会は考えている(いのちの福音56;カトリック教会のカテキズム2267)。アムネスティー・インターナショナルは、昨年25カ国で少なくとも1591人が死刑を執行され、約3分の2に当たる1010人を占めた中国では、実際には7500-8000人に執行されたと推計している。独裁的全体主義国家に政治的粛清が今もあるとすれば、厳しく糾弾されなければならない。
人工妊娠中絶については、正当防衛論は一切通用しない。その原因を自由勝手に作りながら、妊娠という必然的な結果を拒絶し、身勝手な理由を並べてまったく無防備な胎児を抹殺することは最悪の殺人罪である。堕胎を認める法律はすべて、理由の如何を問わず不正である。
21世紀になっても世界を覆う「死の文化」を、万人が安全と喜びのうちに暮らせる「いのちの文化」に転換するため、わたしたちはもっともっと真摯に考え、行動しなければならないと思う今日このごろである。