子どもは親だけの責任ではない

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > 子どもは親だけの責任ではない

子どもは親だけの責任ではない

カテゴリー カトリック時評 公開 [2007/06/15/ 00:00]

――こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)が提起したもの――

こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)の運用が始まった。赤ちゃんポストについては反対論や慎重論もかなりあったが、賛成論が次第に大勢を占めるようになったという。今度の企ては、いのちの尊厳や、子育てに困難を背負う孤立した母親たち思い出させ、子どもたちの養育を引き受けたいという善意を呼び覚ましたから、まさに摂理的であったといえる。

1-子どもは親の私有物ではない

子どもは親の私有物ではなく、「神のたまもの」である。神だけが人間のいのちの絶対的な主権者であり、その生と死を司る方である。ところが、子どもを親が私物化する傾向が進んでいる。

一方では、人間の都合によって子どもを勝手に造る権利を主張する風潮がある。人工授精や代理母、精子銀行の利用など、夫婦行為以外の手段による子どもづくりがそれである。しかし、いのちの創造は神の特権であり領域であって、人間はその協力者に過ぎない。「人間には子供を産む権利はなく、本性上生殖に向けられている自然の行為を営む権利のみが与えられている」(ピオ12世の言葉、『生命のはじめに関する教書』第二章8参照)。

他方、人間の都合によって子どものいのちを抹殺し、虐待する傾向も子どもの私物化である。その最たるものは人工妊娠中絶であるが、新生児遺棄や子どもの虐待等も後を絶たない。親にも社会にも、子どものいのちを守る権利と義務はあるが、これを操作し抹殺する権利はない。

2-子どものいのちを守るのは社会全体の責任

「創造主は、人間のいのちを人間の責任ある配慮にゆだねました。それは、勝手に使うためではなく、知恵をもっていのちを保ち、真心を込めていのちを世話するためです。一人ひとりのいのちをその仲間である人間に、兄弟姉妹にゆだねたのです」(回勅『いのちの福音』76)。つまり、生まれてくる子どもは、祖国と人類社会への神からの「贈りもの」であり「祝福」(創1,28))であって、親だけでなく、社会全体で面倒を見なければならないということである。教会が1983年に公布した「家庭の権利に関する憲章」から第四章を次に紹介しよう。そこには子どもの権利とこれを守る社会の義務が指摘される。

人間の生命は、受胎の瞬間から絶対的に尊重され、擁護されなければならない。

a) 中絶は、人間の生命に関する基本的権利の直接的な侵犯である。

b) 人間の尊厳の重視は、人間の胎児のいかなる実験的な操作や道具化をも排除する。

c) 異常を治すことを目的とする以外は、人間の遺伝子、に行われるあらゆる操作は、身体的な完全さに対する権利に対する侵犯であり、家庭の善に反する。

d) 子どもは、生まれる前と後の双方において母親の妊娠中および出産後の適当な期間を通じての取り扱いと同様に、特別に保護され扶助されるべき権利がある。

e) すべての子どもは、婚姻によって生まれても、婚姻外で生まれても、子どもの統合的な人格成長のために、社会的に保護されるべき同等の権利を有する。

f) 孤児や、親または保護者の扶助を受けられない子どもを、社会は特別に保護しなければならない。国家は、里親による養育や養子縁組に関しては、継続的または一時的に養護を必要としている子どもを迎え入れるのにふさわしい家庭を援助する法律を、規定しなければならない。この法律は、同時に親の本性上の権利を尊重しなければならない。

g) 障害児は、家庭と学校において彼らの人間的成長にふさわしい環境を見いだす権利がある。

国が豊かになった今も、なぜか子育ては難しくなり、か弱いいのちの受難は続く。そんな状況下で開設される赤ちゃんポストについて、総理大臣や関係大臣の談話は「子育ては親の責任」、「赤ちゃんポストは子どもの遺棄を助長する」などと否定的なニュアンスが強い。生まれて来るすべての子どもを守り支援すべき国の補完的使命について前向きの発言が聞けないのを大変残念に思う。コルカタの福者マザーテレザが言ったように、生れて来るいのちを大切にしない日本は、本当は貧しい国なのかもしれない。だが希望はある。善意の協力者たちがいる限り。