教師の教育的権威と尊厳

教師の教育的権威と尊厳

カテゴリー カトリック時評 公開 [2007/07/01/ 00:00]

――失われた教師の教育的権威と尊厳の回復こそ、教育再生の鍵――

教育再生論議の中で学校教師の資格が厳しく問われている。その中で気になることがある。それは、教師の能力や実務に関する議論ばかりで、人生の師としての教師の権威と尊厳についての議論が欠落していることである。現場から教育を再生するには、何よりも教師自体の自覚と使命感、責任感を取り戻す必要がある。教師の権威と尊厳に対する世間の関心と評価を高めることも必要である。なお、ここでは特に小中高の教師について論ずるから、成人した大人が学ぶ大学の教師については、適応して理解して欲しい。

1-教師の教育的権威

教育の目的は人格の形成にある。人格形成は知識や技術の習得ばかりではなく、特に信仰・道徳を正しく伸ばす良心の形成を中心に行われるが、教師は、生みの親の教育的使命を引き継ぎかつ代行して、児童生徒の人格の形成にたずさわる。子どもは成長するに従って生みの親から距離を置き、親を補完する親以外の指導者を必要とするからである。

ところで、教師がその使命を果たすには、生みの親がしたと同様に、必要に応じて児童生徒に命令してその服従を要求する権利としての「教育的権威」を行使することになる。然るに、教師も児童生徒も人格としては本質的に平等であるから、児童生徒の上に立って教育的権威を行使するためにはその権威を授けられる必要があるが、いのちの創造者とその協力者である生みの親からいわば二重に子どもの教育を委託されることを通して、教師は事実上、その教育的権威を神から授かるのである。すべての権威は神から来る(ローマ13,1参照)からである。従って、教師の仕事は神から委託された神聖な職務であり、従って「聖職」であると理解されてきた。

2-教師に対する尊敬

しかし、戦後の民主教育において個人主義が偏重される一方、マルクス主義イデオロギーに影響された教員組合運動等によって、「教師も労働者である」とされ、教師の「聖職者」としての教育的権威が軽視されることになった。その辺りに戦後教育の一つの破綻があると考えてよいのではないか。だから、真の教育再生は、教師の教育的権威の回復からはじめなければならないということになろう。

いじめ自殺等をめぐる一連の教育の危機的現象に全国が揺れたとき、テレビの前で校長や教師が深々と平身低頭する姿が放映されたのを観て悲しくなった。まるで教師たちを犯罪者扱いしている観があったが、世間もメディアもこぞって教育の権威失墜を助長する象徴的な出来事ではなかったか。今こそ、親も児童・生徒も、そしてメディアを含めた社会一般も、教師の教育的権威に対する畏敬と尊重の心を取り戻す必要があると思う。そうすれば、教師たちもまた自らの聖職に目覚め、誠心誠意、その尊い使命に応えるべく励んでくれるに違いない。聖職者意識は教師の使命感と責任感を呼び起こすはずだからである。

3-教師の人間的な限界への配慮

教師の仕事は多忙だと言われる。先日、朝日新聞の“私の視点”で、教員養成に長年携わってきたという小島康次教授は書いていた。「(日本の教員は)教科教育(授業)だけでなく、生徒指導や課外活動など生徒のあらゆる教育面について直接、間接に責任を負わされ、夜中でも休暇中であっても呼び出されることがある。このような包括的な職務内容は、教師に過度な能力・資質を求めることになっている」。そう言えば、校外での生徒の非行はすべて学校や教師の責任として追及されてきたように思う。いじめ問題でもそうだ。教授はいう。「すべての教師にいじめ指導のエキスパートになれというのは現実的でない」。

だから、教師の人間としての限界を考慮して過重な要求をしてはいけないのではないか。「多様な価値観をもった児童・生徒の問題に、教師の誠意や人間性だけで対処する発想は限界に来ている」と小島教授は書いている。また、両親の教育的使命を補完する教育機関は学校ばかりではないことを忘れてはいけない。今まで、学校は子どもの教育の責任と機会を独占し、学校以外の、たとえば教会などにその余地を残すことなど想定外ではなかったか。子どもの教育は多くの人と教育機関の総合的な協力を必要としている。