自殺防止の決め手はあるか
カテゴリー カトリック時評 公開 [2007/07/15/ 00:00]
ある日の昼のニュースで「過労死・過労自殺に関する電話相談」が行われていることが報じられていた。そういえば、先般の警察庁の発表によると、昨年の自殺者は全国で3万2千155人に達し、9年連続で3万人を越えているという。それに、生徒や学生の自殺も増え、統計を取り始めた78年以降で最も多くなったという。
ある資料によれば、自殺率(人口10万人当たり自殺者数)では、「先進国G7諸国中で一位、OECD加盟国ではハンガリーに次いで2位」だという。日本は先進国の中でロシアに次ぐ高い水準だという報告もある。自殺者増を心配した国は、昨年10月、「自殺対策基本法」を制定し、今年6月には「自殺総合対策大綱」を閣議決定して、2016年までに自殺死亡率を20%以上減少させる計画を立てた。これは、個人の問題として片付けられてきた従来の慣習を改め、自殺の「背景に様々な社会的要因」がある」ことを認め、自殺を「追い込まれた末の死」、「社会全体にとっても大きな損失」(基本法)と位置づけたためである。そして大綱においては極めて適切で多様な対策が盛られているが、その中には民間の個人や団体の協力を求めるものもある。
自分の意思によって自分の生命を絶つ自殺は人類の歴史とともに古くからあったとされるが、自殺の道徳性については必ずしも否定的なものばかりではなかった。わが国でも、武士らしい責任の取り方として切腹が認められ(松岡農水相の自殺を石原都知事は切腹にたとえた)、明治天皇崩御の折の乃木希典夫妻の殉死が美談とされてもいる。
『カトリック教会の教え』(2003年・カトリック中央協議会)によれば、旧約聖書においては「殺してはならない」(出エジプト20,13)と、他人のいのちばかりでなく、自分の生命を奪うことも禁止されているが、最初の王サムエル(サムエル上31,1参照)、ダビデ王の顧問アヒトフェル(サムエル下17,13参照)その他幾つかの自殺は、「自分たちの罪悪による結末として容認されており、倫理的な評価も非難も見られない」。新約聖書には唯一、イエスを裏切ったユダの自殺が語られるが、「それは裏切り行為による自己処理または自己審判」(マタイ27,3-5ほか)ではあるが、それは非難されておらず、救済史の中に位置づけられているのみである。
しかし、教会は、聖書全体と聖伝に従い、故意の自殺が禁じられる理由を三つ挙げている。すなわち、1)自殺は自分に対する神の至上権と愛の計画に反する、2)自殺は自己愛を拒み、生きようとする自然本性的な欲求を拒むことである、3)自殺は、隣人や共同体、社会に対して負っている正義と愛の義務からの逃避である。(教理省『安楽死についての声明』(1980年)参照)。
なお、上記声明によれば、厳密な意味の自殺に当たらない場合として、「異常心理的な要因による自殺」と「自己犠牲死」を挙げている。従って、自分で自分の生命を絶つ者をすべて無差別に自殺者として断罪することをせず、そのような終焉を迎えなければならなかった人生を静かに神に委ねる姿勢を持つことが大切とされる(ヨハネ・パウロ2世回勅『いのちの福音』66参照)。
また、自殺者の教会での埋葬権を剥奪するという旧教会法典1240条1項3の厳しい規定は、『新教会法典』では撤廃された。理由の如何を問わず自らの生命を絶つ者にも、神のみぞ知る仕方で「悔い改めとゆるし」の機会が与えられるであろうことを教会は信じるからである。
ところで、自殺を防止する決め手はあるのだろうか。自殺総合対策大綱に示された自殺防止策はそれなりの効果を持つであろうが、万全ではあるまい。だから2016年までに20%削減と低い目標に掲げたのであろう。死を選ぶほどの苦しい逆境を生き抜くには、相応の生きる動機が必要だからである。その動機とは、どんなに苦しくても「生きる意味がある」という確信ではなかろうか。
そのような究極の動機は、わたしはキリスト教信仰以外にないのではないかと思う。見える人間となった神の愛・イエス・キリストは、その生涯と、特にその苦難と復活を通して神の愛と死よりも強いその力を余すところなく示した。だから、人はキリストへの信仰によって、全能の父なる神に愛されているという信頼、そして、すべてに超えて神を愛し、隣人を愛することを通して永遠の至福に至るとの確かな希望を持つことができる。このような信仰を持つ者にとって、死にたくなるほどの苦境を生き抜くこと自体が愛することであり、「禍を転じて福となす」ということわざ通り、愛するための苦しみはむしろ喜びとなる。事実、たとえば迫害に遇った使徒たちは、「御名のために辱められるに値する者とされたことを喜んだ」(使徒行録5,41)。また、聖パウロは断言する。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(1コリント10,13)。